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天狗藝術論

 巻之三

一、問う、何をか 動いて動くことなく、静かにして静かなることなしという。
曰く、人は動物なり、動かざることあたわず、日用人事の応用多端なりといえども、この心 物のために動かされず 無欲無我の心体は 泰然として自若たり。
剣術をもって語らば、多勢の中に取り籠められ 右往左往にはたらく時も、生死に決して神定まり 多勢のために念を動ぜざる 
これを動いて動くことなしという。
汝馬に乗る者を見ずや、よく乗る者は馬 東西に馳すれども、乗る者の心 泰(やすらか)にして忙しきことなく 形静かにして動くことなし、
外より見ては馬と人とつくり付けたるごとし、ただ彼が邪気をおさえたるのみにて馬の性にさからうことなし、
故に人 鞍の上にまたがって馬に主たりといえども 馬これによってくるしむことなく 自得して往く。馬は人をわすれ 人は馬をわすれて 精神一体にして相はなれず、これを鞍上に人無く鞍下に馬無しともいうべし。これ動いて動くことなきもの、かたちにあらわれて見易きものなり。
未熟なる者は馬の性にさからって我もまた安からず、常に馬とはなれていさかうゆえに、馬の走るにしたがって五体動き心忙しく 馬もまた疲れくるしむ。ある馬書に馬のよみたる歌なりとて、

 打込てゆかんとするば引きとめて口にかかりてゆかれざるなり

これ馬に代わりてその情を知らせたるものなり。ただ馬のみにあらず、人を使うにもこの心あるべし。一切の事 物の情にさからって小智を先にする時は、我もいそがしく人もくるしむものなり。
何をか静かにして静かなることなしという。
喜怒哀楽未発の時、心体空々として一物の蓄えなく 至静無欲の中より
物来るにしたがって応じてその用きわまり 作ることなし。

静かにして動かざるものは「心の体」(心の本体・常の姿)なり、
動いて 物に応ずるものは「心の用」(心の働き・動く姿)なり、

(心の)体は静かにして衆理にそなえて霊明(明かな霊性)なり、
(心の)用は動じて天則に従いて万事に応ず。
(心の)体用は一源なり、これを動いて動くことなく、静かにして静かなることなしという。

剣術をもって語らば、剣戟(武器)を執って敵に向かう、潭然として(深く落ち着いて)悪む(にくむ)こともなく、おそれることもなく、とやせんかくや(ああしよう こうしよう)と思う念もなき中より、敵の来るにしたがって応用無碍自在なり。
形は動くといえども 心は静の体を失わず、静かなりといえども動の用を欠かず、鏡体静かにして物なく、万象来たり移るにまかせてその形をあらわすといえども、去る時は影を留むることなし(鏡は常は何も映さず、来るものがあればそのまま映し、去る時は姿を残さない)。水月のたとえに同じ。
心体の霊明(真理に明かな霊性)もまたかくのごとし、
小人は動くときは、動くにひかれて己を失い、静かなるときは頑空(中身がないもの)になりて用に応ずることなし。

一、何をか水月という、
曰く、流儀によりて色々義理をつけていえども、畢竟(要するに)無心自然の応用を水と月と相うつる所にたとえたるものなり。廣澤の池にて仙洞(崇徳上皇)の御製に、

 うつるとも月もおもわずうつすとも水もおもわぬ廣澤の池

この御歌の心にて、無心自然の応用を悟るべし。

また一輪の明月 天にかかって、万川各一月をそなえるがごとし、光を分けて水に与えるにあらず、
水無ければ影無し、また水を得てはじめて月に影あるにあらず、
万川にうつる時も一水に移らざる(映らざる)時も、月において加損なし 。

また、水の大小をえらぶことなし)、
これをもって心体(心の体)の妙用(すぐれた働き)を悟るべし。
水の清濁をもって語るは末なり(末節のこと)、
しかれども月は形色あり、心には形色なし、その形色あって見やすきものをかりて形色無きもののたとえとす、一切のたとえ みなしかり、
たとえに執して心を鑿(さく)ことなかれ。


一、問う、諸流に残心ということあり、不審(確かなこと知れず)、何をか残心という。
曰く、事(わざ)にひかるることなく心体不動の所をいうのみ。心体不動なるときは応用あきらかなり。日用人事もまたしかり、
打あけて 奈落の底まで打ち込むというとも、我はもとの我なり、故に前後左右無碍自在なり。心を容れて残すにはあらず(心を容れるものと残すものに分けるのではない)、
心を残すときは二念なり。
また、心体明らかならずして 心を容れずというばかりならば、盲打盲突というものなり、
明は心体不動の所より生ず、ただ明らかに打ち明らかに突くのみ、
これらの所 語り難し、悪しく心得れば大いに害あり。

一、諸流に先ということあり、
これまた初学のために鋭気を助け惰気(なまけ心)に笞(むち)打つの言なり。
実は心体不動にして己を失わず、浩気(天地間に充ちる正しい気)身体に充つる時はいつも我に先あり、

人よりさきへ打ちつけんと心を用うるにはあらず、
畢竟(要するに)剣術は生気を養って死気を去るを要とす、
懸かりのなかの待つ、待つの中の懸かりというも、みな自然の応用なり、初学のためにしばらく名を付けたるのみ、
動いて動くことなく静かにして静かなることなしというの意なり。
初学の者は、気の剛柔 事の応用をもって語らざればよるべき所なし、ゆえにその所について名を付け 教うるのみ、

しかれども名を付くる時は、名に執してその大本をあやまり、名を付けずれば空にして取認なし(まとめられない)、とにもかくにもその大意を識得せざる者には語るべきようなし、
一切のことみな然り、ゆえに物の師をするもの、その人にあらざれば秘して妄り(みだり)に語らざるもまた宜(むべ・もっとも)なり、その大意を識得すれば、見ること聞くこと直に分かるものなり。

一、前に論ずるごとく、一身の動静はすべて気の作用なり、
しこうして心は気の霊(たましい)なり、気は陰陽清濁のみ、

気清きものは活してその用軽し、
 濁るものは滞りてその用重し、
形は気にしたがうものなり、ゆえに剣術は気を修するをもって要とす、
気活するときは事(わざ)の応用軽くして、
 疾濁る(はやさが鈍る)時は事(わざ)の応用重くして遅し、

気は剛健を貴ぶといえども、
偏に剛を用いて和なき時は、くじけてその用行われず、
片寄るものはそのあと虚にして用をなさず、
用は和を貴ぶといえども、中に剛健の主無き時は 流れて弱に至る。

弱と柔と異なり、柔は生気を含んで用をなし、弱は一向に力なくして用をなさず、
休と惰とまた異なり、休は生気を離れず、惰は死気に近し、
しまる(緊まる)者は気のよる所あって解きがたきものなり、
念によりてしまるあり、陰気自らしまるあり、

すべて気のよる所あれば用に応ずること速やかならざるものなり、
ゆえに しまる気は事(わざ)の気用 遅し、
気先だって事(わざ)の応用かわくものは陽にして根なし、
軽くして潤いなきものなり、枯れ葉の風に散るがごとし、
湿り滞るものは、濁気の自ら重きにひかれて応用の遅きものなり、
凝るものは気 偏(ひとえ)にあつまり固くとざして形をなし、止まって動かざるものなり、
ゆえにその応用いよいよ遅し、水の氷りて融和せざるがごとし、
これもまた 念の気 凝るあり、
知ることあるを念という、知ることなきを気という、みな自ら試みて知るべし。

一、剛柔変化して自在なるものは応用無碍なり、ただ剣術のみにあらず、学術といえども気の剛柔変化自在なる所を修し得れば、心の妙用(すぐれた働き)をあらわすべし、心体(心の本体)の妙用は迹(あと・実際の行為)なくして語るべからず、
ゆえに剣術は気をもって修して、心体(心の本体)の照らす所を知る。
学術は心をもって修して、気の変化妙用を知る、
然れどもただ理をもって意識のあいだに知るのみにして、身に修し得ることなき時は、心気の噂(不確かなもの)にしてその用をなさず、
剣術者は気を修するといえども、ただ剣術応用の所のみ修するがゆえに、心の霊覚(真理の開悟)もまたその一方にのみ達して、日用常行に及ぶことなし、
心気もと一体なり、己に試みてその大意を識得せば、修行未熟なりというとも、分に応じて益あるべし。

一、諸流ともにその極則に及んでは一つなり、流儀々々はその先覚の人の修練して、わが入りよきと思う門戸より導くのみ、
然れどもその道すがらの風景を愛し、ここに住して自ら是とするもの多し、これをもってその末々の流儀多端にして、互いに是非を争うと見えたり、

その極則(ごくそく)は是非の争うべきことなし、その中途の風景は皆意識のあいだの見のみ、その大本は二つも無く三つも無し、

別れる時は善悪あり邪正あり、剛柔あり長短あり、(したがって)その末々に至っては論じ尽くすべからず、われが知る所 人は知るまじきと思うは愚なり、我に霊明あれば、人もまた霊明あり、豈(どうして)おのれ一人知あって天下みな愚ならんや、ゆえに隠すことはなきものなり、

学術といえどもまた然り、老佛(老子と仏陀)、荘列(両名とも道学者)、巣父、許由(中国伝説の隠者)が徒も無我無欲の心体を見ることは一なり(同じなり)、
ゆえに一毫(わずか)の私念心頭を係縛する(つなぎとめる)ものなし、ただその見る所の風景異なり、ゆえに別れて異学となるのみ、
聖人の道は天を戴き地を踏むで(踏むものでなく)山河大地遺すことなし、夫婦の愚不肖(凡人の至らない行い)も あずかり知るべくよく行うべし、
天下 仁義に服せざる者なく、孝悌忠信(親に孝行し兄に従順な心)を非る(そしる)者なし、
天竺佛氏の徒(仏教徒)といえども、聖人の沢を蒙りて仁義(儒学)の中に浴せずということなし、
異学の風景のよく及ぶ所にあらず、天地万物の大本上より見下ろすが故なり、(異学の風景は見えないものであるが、天の理より見れば大本は一つである)
異学の徒もみな聖人の別派なり、大道(人が行うべき正しい道)に背くことあたわず。

一、問う、清濁は陰陽なり、何ぞただ清を用いて濁を去るや、
曰く、濁も用いる所あり、然れども剣術はその用の速やかなるを貴ぶ、陰陽はなくては叶わず、ただその清を用いて濁の重きを用いざるのみ、物を乾かすには火を用いて水を用いず、各々その用によるのみ、
心の聡明癡鈍もまた気の清濁のみ、
気清きものは自性の霊覚(生来の正しい心)遮るものなし、質おのずから聡明なり、
心体もと虚霊にして昧きことなし(わだかまりが無く霊妙で、鏡のように真実の姿を映し出している)、

ただ濁気 その霊明を覆うがゆえに、愚をなし癡をなし鈍をなす、
昏(くら)くして理に通ぜざる これを愚という、
滞りて遅き これを鈍という、
濁気はなはだしく重くその渣滓(かす)にひかれ、念とどまって暗中に迷妄し、思う所を捨てることあたわず、己にも決せず人にも従わず、常に苦しんでやまず、これを癡という、
凡人の性質千差万別なりといえども、みな濁気の浅深厚薄のみ、
心は気の霊(たましい)なり、
この気のある所霊あらずということなし、
この気なければこの霊なし、
また人の船に乗って水を渡るがごとし、風はげしく波あらき時は、舟、風に従い波にひかれてその行く所を知らず、人、舟中にあって安きことなし、濁気妄動して心の静かならざる象(かたち)またかくのごとし、
風やみ波しずかなる時は、始めにかえって乗るもの安きを得たり、人心の邪をなし 身を危うくする、みな濁気の妄動のみ、
その大本は欲の巌穴より吹き出す所の大風なり、欲もまた濁気の偏なり、
また偏屈にして情の強きものは、陰気の凝り固まりて力あるなり、
心騒がしく、とり認(まとめること)なきものは陽気の根なきものなり、
おそれる者は気の飢えて体に充たざるなり、
心の決せざる者は気の弱にして定まざるなり、また癡に近し、
これらはみな濁気の病なり、
また聡明にして篤実なる者は、陰陽 和して欠闕(けっけつ・欠けていること)無きものなり、
知明敏にして行い篤実ならざる者は、清陽の気勝ちて陰精の薄きなり、
行い篤実にして知明敏ならざる者は、陰清の勝ちて清陽の気薄きなり、
陰中の陽、陽中の陰、その中の過不及(いき過ぎか及ばないか) 浅深、厚薄、千差万別、論じ尽くすべからず、
類を推してこまかに察する時は、みな陰陽清濁に漏れることなし、
上は天地の大より下は蚤虱(のみしらみ)の微物までも、陰陽の気充たざればその形の用を成すことあたわず、今ここにその大略を語るのみ。

一、何をもってかこの気を修せん、
曰く、ただその濁を去るのみ、陰陽の気は生々変化して天地万物の大本たり、
濁は陰気の渣滓(かす)なり、渣滓はとどまって活せず、陽の助けを得て動くゆえに、その用重くして遅し、
清水に泥を加えるときは たちまち濁水となるがごとし、既に濁水となるときは物を浄めることあたわず、物にすすげばかえって物をよごす、
ゆえに学術は良知の明をもって気の濁を去るのみ、濁気去るときは気生活し、心体ひとりあらわる、迷心ただちに本心となる、この心二つあるにあらず。

一、陰陽もと一気なりといえども、すでに分かれる時は、その用千差万別の異なるなり、
その用の異なる所を見て そのもとの一つなる所を知らざる時は、道 明かならず、
そのもとの一つなる所を知って その用の異なる所を知らざれば、道行われず、
ただ心に試みて つまびらかに工夫すべし、言説の尽くす所にあらず、今木の葉天狗ども心体に通じて解せざるに故に、有無の迹(あと・事実)をもって論ずるのみ。
この心 気中に存する、魚の水中に遊泳するがごとし。魚は水の深きによって自在をなす、大魚は深淵にあわざれば遊泳することあたわず、、また水かれる時は魚苦しみ、水尽きる時は魚死す。心は気の剛健によって自在をなす、気乏しき時は心憔け(かじけ・やつれ)、この気尽きる時は心無に帰す、かるがゆえに水動く時は魚驚き、気動く時は心おだやかならず。

一、勝負のことに限らず、一切のこと 天に任せると運に任せるとの異なるあり、
剣術は常に勝負の理を究め、人事(人間の行うもろもろのこと)はその当然の義理を尽くしてわたくしの巧を用いず、為して恃まず(たのまず)思うて執滞することなき、これを天にまかするという。
人事を尽くす所すなわち天にまかするなり、百姓の農をつとむるがごとく、たがやし種まき芸って(くさぎって)その長ずべき道を尽くし、洪水干ばつ大風は我が力の及ばざる所、これを天に任するなり、
人事をも尽くさずして天に任すという分にては、天道請け取り給うべからず、ただ自然に来る所をまつ、これを運に任すという、
ただしさしあたり迷うて決断せざる時には、運に任せよということもあるべし。

一、心体(心の本体)は形色声臭なし、妙用は神(人智を越えた働き)にしてはかり知るべからず、何をもってか心を修せん、(どうやって心の修行をしたら良いのか)
曰く、心体(心の本体)は言を容れるべからず、
ただ七情(喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲(礼記))の動く所、意の知覚する所、応用の際においてその過不及(いき過ぎか及ばないか)を制し、私念の妄動を去り、自性の天則(生まれながらの真正な性質)にしたがわしむのみ、
その手を下す所は良知の発見による、

なにをか良知という、
心体の霊明(正しい霊性)是非邪正を照らして、天地神明に通じるもの これを知るという、
凡人は濁気の妄動におおわれて、その照らし 全からず、
隙間よりわずかに発見するもの、これを良知という、
一念断頭においてこれを知り非を知り、人の誠あるに感じ、自ら不善をなして内は快よからざることを知るものこれなり、
その情に動いてはジュツテキ惻隠(あわれみいたむ)の心生じ、親を愛し子は慈しみ、兄弟相親しんでやむべからざるもの、これを良心という、
その良知を信じてこれにしたがい、その良心を養うて私念をもって害することなきときは、
濁気の妄動おのずから静まり、天理の霊明ひとりあらわるべし、
私念は己を利する心より生ず、己を利するに専らなる時は、人に害あるをもかえりみず、ついに邪をなし、悪をなし身を亡ぼすに至る、
心を修すると二事にあらず、故に孟子浩然の気(天地間に満ちる至大で正しい勇気)を養うの論、ただ志しを持するにあって、
別に養気の工夫無し。

一、佛家に意識の悪み(にくみ)去るは何ぞや、
曰く、佛法の工夫はわれ知らず、意識はもと知の用(はたらき)なり、悪む(にくむ)べきものにあらず、ただ情を助けて本体を離れ、自ら専ら(自分中心)にすることを悪む(にくむ)のみ、意識は士卒のごとし、

将、物のためにおおわれて暗弱にして勢なきときは、士卒 将の下知(命令)を用いず、自ら専ら(自分中心)にしてわたくしの謀(はかりごと)を用い、わたくしの働きをなして陣中和せず、妄動して備え騒ぎ(軍勢も乱れ)、ついに敗軍の禍を取るものなり、

この時にあたっては将 いかんともすることあたわず、いにしえより大軍の騒ぎ立ちたるは鎮めることあたわずといえり、意識自ら専ら(自分中心)にして情欲を助け妄動するときは、自らその非を知るといえども制し難きものなり、これ意識の罪にはあらず、
将、知勇ありて法令明らかなるときは、士卒、将の命を慎みてわたくしの働きをなさず、下知(命令)に従ってよく敵を破り、備えをかたくして敵のために破られることなし、これ士卒の働きゆえに将大功を立てるなり、
然からば意識も心体の霊明にしたがい、自性の天則(生まれながらの真正な性質)によって働きをなし、自ら専らにするのわたくし無くんば、知の用(はたらき)をなして国家の政(まつりごと・政治)を助く、なんぞ意を悪む(にくむ)ことをせん、
聖人 毋意(思うなかれ)というは、意(意識)自ら専ら(自分中心)にすることなく、知覚みな自性の天則(生まれながらの真正な性質)にしたがいて意の迹(あと・形跡)無し、故に毋意(思うなかれ)という。

一、問う、いにしえ中華にも剣術の伝ありや、
曰く、われ未だその書を見ず、和漢共にいにしえは気の剛強活達を主として生死をかえりみず、力をもって争うと見えたり、
荘子の説剣の篇等を見るにみな然り、ただ達生の篇に「闘鶏を養う」(猫の妙術の見本になっととも云われている)の論あり、全くこれ剣術の極則(ごくそく)なり、然れども荘子剣術のために論ずるにあらず、ただ気を養うの生熟(熟してないものと熟したもの)を論ずるのみ、

理に二つ無し、至人の言は万事に通ずるものなり、心を付ければ一切のことみな学問とも剣術ともなるべし。和朝の古き剣術の書を見るに、かつて高上の論無し、
ただ軽業早業の術を習うと見えたり、多くは天狗をもって祖とす、おもうに生得の勇はみなその身に備わって語るべき所なし、ただ業(わざ)を習い、気を修して、そのうちにて生得の勇を養うと見えたり、かるがゆえに論ずべきことなし、
いま世間文明になって(世の中が進歩し学問も広まって)初学より玄妙の理を論ずといえども、預かり物のごとくにして、その実は古人に及ばざること遠し、学問もまた然り。

一、問う、剣術は心体の妙用なり、なんぞ秘することあるや、
曰く、理は天地の理なり、我が知るところ天下何ぞ知る者無からん、秘する者は初学のためなり、秘せざれば初学の者信あらず(かえって信じない)、これを教える者一つの方便なり、故に秘するとこはみな事(わざ)の末なり、極意にはあらず、

初学のもの何のわきまえも無く、みだりに聞き悪しく心得て自らよしとし、人に語るときはかえって害あり、かるがゆえにその得心すべき者ならでは教えずと見えたり、
その極則(ごくそく)に至っては同門にあらずといえども、広く語りて隠すことなし、秘することは多くは兵法の方便なり、

未熟の者に秘して教え、一旦の勝ちを取る気然を助ける術もあるべし、
また他より見て、そのこころをも知らず、浅間なることなりとて、みだりに評を付けることを厭うて、かくすることもあるべし、
一概には論ずべからず、一切のことを正道に隠すことは無きものなりといえども、
言の漏れて害になることあるをば(説くところが部外者に漏れて害になることもあり得る)、品によりて隠密にすることもあるべし(部外者に見せたくない場合もあるであろう)、
剣術の事(わざ) 世間応用の事(わざ)とその理かわること無し、剣術において心を用い、その正邪真偽をくわしくわきまえ知り、これを日用応接の間に試み、邪は正に勝つことあたわざる所をよく自得せば、こればかりにても大いなる益あるべし。

一、心は明らかにして塞がることなきを要とす、気は剛健にして屈することなきを要とす、心気もと一体なり、分けていえば火と薪(たきぎ)のごとし、火に大小なし、
薪不足なれば火の勢いさかんにならず、
薪湿るときは火光明らかならず、
人身一切の用(はたらき)はみな気のなす所なり、故に気剛健なる者は病生ぜず、風寒暑湿にも感ずることなし、
気柔弱なる者は病も生じやすく邪気にも感じやすし、気病むときは心苦しみ体疲れる、医書に曰く、百病は気より生ずと、
気の変わる所を知らざる者は病の生ずる所を知らず、故に人は剛健活達の気を養うを基本とす、
気を養うに道あり、心明らかならざれば、この気道を失いてみだりに動く、
気妄動する時は、剛健果断の主を失い、小知をもってかえって心の明を塞ぐ、
心くらく気妄動する時は血気盛んなりといえども事自在ならず、
血気は一旦(一時だけ)にして根なし、動いてそのあと虚なり、
これらのことは剣術の事(わざ)をもって試みてみるべし、
故に初学の士は、まず孝悌(親に孝行し兄に従う心構え)の人事を尽くし、人欲を去るにあり、
人欲妄動せざる時は気収まって執滞せず、
剛健果断にしてよく心の明を助く、気剛健ならざるときは事決せず、決せざる所より小知を用いて心体の明をふさぐ、これを惑(わく)という、
剣術もまた然り、神定まって気和し、応用無心にしてこと自然にしたがう者は その極則(ごくそく)なり、
然れどもその初めはまず剛健活達の気を養って、小知を捨て敵を脚下に敷き、鉄壁というとも打ち砕く大丈夫の気象にあらざれば、熟して無心自然の極則に至ることあたわず、

それ無心と思う者は頑空になり、和と思う者は惰気なり、
ただ剣術のみにあらず、弓馬一切の芸術といえども、まず大丈夫の志を立て剛健活達の気を養わざれば事ならず、この気はもと剛健活達にして生の原(みなもと)なり、
人ただ養いを失うのみにあらず、小知をもって害するが故に、怯弱にして用をなさず、
世間一切のことみな然り、前に論ずるごとく、気は心を載せて一身の用をなす者なり、自身に試みて知るべし、
ただ書を読み人の言を聞きたるのみにして自身に試みざれば、道理のうわさ(不確かなもの)になりて用をなさず、これをうわさ学問という、学問芸術一切の事(わざ)その理を聞いて、みな自身に試み心に證する時は、その事(わざ)の邪正難易 確かに知られるものなり、これを修行という。
 

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