天狗藝術論
巻之二
一、一切の藝術、放歌づかい、茶碗廻しにいたるまで、事(わざ)の修練によって上手をなすといえども、その奇妙(並はずれてたくみなこと)を為すはみな気なり、
天地の大たる、日月の明らかなる、四時の運行寒暑の往来して万物の生殺をなすもの、みな陰陽の変化に過ぎず、その妙用は言説の尽くすところにあらず、
万物そのうちにあってその気をもってその生を遂ぐ、気は生の源なり、この気かたちを離るる時は死す、生死の際はこの気の変化のみ、生の原を知るときは死の終わる所を知る、
生死の道に明らかなるとき、幽明鬼神通じて一つなり(冥土と現世を力が通じて一つになる)、かるがゆえに今日 身をおくところ、生に在っても自在なり、死にあっても自在なり、
仏家には再生流転の惧れあり、かるがゆえに造化(世の中)をもって幻妄(まぼろし)とし、意を断ち識を去って不去不来の空へかえるをもって成仏とす、
聖人の学は再生輪廻のおそれなし、化に乗じて尽きるに帰するのみ、気を修するときはおのづから心を知る。
一、生死の理は知りやすきところなれども、この生にしばらくの名残のみ、これを迷心という。
この迷心妄動するゆえに、神くるしんで常に大負をとることをしらず。(迷心があるゆえ負けてしまうことがわかっていない)
一、問う、その極則(ごくそく)においては我 得て聞くべからず、願わくは修行の大意を聞かむ、
曰く、道は見るべからず聞くべからず、その見るべく聞くべきは道の跡なり、その跡によってその跡無き所を悟る、これを自得という、
学は自得にあらざれば用をなさず、剣術小藝なりといえども、心体の妙用にして、その極則(ごくそく)に及んでは道に合す、
我いまだ自得にいたらずといえども、ひそかに聞くことあり、その聞くところをもってしばらく汝に語らん、汝妄聴せよ、耳をもって聞くことなかれ、
その心を載せて形を御するものは気なり、故に一心の用は全く気 これを掌(つかさ)どる、
気の霊(たましい)これを心という、天理をそなえてこれ気の主たるものなり、
心体(心の本体)も形声色臭なし、気に乗じて用をなすものなり、
上下に通じるは気なり、わずかに思うことあれば気にわたる、
心の物に触れて動く、これを情という、
思惟往来する これを念という、
心 感のままに動いて自性の天則(生まれながら持つ天理)にしたがうときは、霊明(真理に明かな霊性)始終を貫いて気の妄動なし、
たとえば舟の 流れにしたがいて下るがごとし、動くといえども舟静かにして動の跡なし、これを動いて而して動かざるという、
凡人は生死の迷根いまだ断ぜず、常に隠伏して霊明(真理に明かな霊性)のふたとなる、故に喜怒哀楽未発のときは、頑空(中身がないもの)にして濁水を湛(たた)えたるがごとし、
一念わずかに動くときは他の隠伏のもの起こり、情欲妄動して我が良心に迫る、
洪水に逆上って舟を棹(さお)さすがごとし、波荒く舟動いて 内安きことなし、気妄動するときは応用自在ならず、
剣術は勝負のことなり、初学より生死の迷根を断つをもって要とす、然れども生死の迷根 にわかに断ちがたし、
故に生死の理において心を尽くし気を練り、勝負のことに挑み、
この間において工夫を怠らず、殺身修行して事(わざ)熟し 気収まり、
その理 心に徹して疑うことなく、惑うことなく、
この一路において霊明(真理に明かな霊性)ふさがる所なきときは、
この念ここに動ずることなし、
この念動ぜざる時は、気は霊明にしたがって活達流行、
心を載せて滞ることなく ふさがることなく、
その形を御すること無碍自在なり、
心の感にしたがって応用の速やかなること戸を開いてすぐに月のさし入るがごとく、物をうってただちに声の応ずるがごとし、勝負は応用の跡なり、
我はこの念なければ形にこの相なし、相は念の影にして形にあらわるるものなり、形に相なければ向かって敵すべきものなし、これを敵もなく我もなしという、
我あれば敵あり、我なきがゆえに来る者の善悪邪正 一念の微に至るまで、鑑(かがみ)に映るがごとし、我よりこれを映すにはあらず、彼来たって映るのみ、成徳の人には邪をもって向かうことあたわざるがごとし、自然の妙なり、
もし我よりこれを映さんとせばこれ念なり、この念我をふさぐが故に気滞って応用自在ならず、
不測の妙用(不測の事態にすぐれた働きを)思わず為して、来往神のごとくなる者、これを剣術悟入の人という。
一、然れども鼻高くくちばし有り 羽根あり、
故に他のことにおいては、霊明(真理に明かな霊性)ふさがる所ありて、心の応用自在を為すことあたわざる者は、始めよりひとえにこの一路に志して、心を修し気を練ることここにあり、
その他のことは疾痛身に切なるをも忘れ、もの耳目にふるれども眼を開いて見ることなし、いわんや心を留むるを、
故にこれには修し得て明らかなれども、広く取って他に用いることあたわず、明りの及ぶ所限りあればなり、
たとえば燈を箱の内に置いて一方を開くがごとし、その開きたる方は照らせども、その他は光およばず、少しく他に通じることあるものはその傍光の影なり、故に全きことあたわず(すべてには行き渡らない)、(しかし)
初めはわずかの穴をみつけてその穴を力を用いて掘りあくれば、修行の方にて次第に穴大きくなりて照らす所も大なり、
もし天地万物(世の中の全てのもの)をもって打太刀として修行し、この箱を打ち破らば、四方八面明らかになり、心体の応用無碍自在にして、富貴貧賤患難困苦の大敵、前後左右より取り巻くといえども一毫(いちごう・わずか)も動念なく、団扇(うちわ)をもって蠅(はえ)を払うがごとく、みな前に平伏して頭を出す者あるべからず、
ここに至って鼻も平らかになり、羽根なくとも飛行自在をなすべし。
一、すべて一藝に達したる者は常に心を用いる故に、道理には暁(あかる)きものなり、然れども志し我が藝に専らなるが故に、ここに私して道には入りがたし、
偶偶(たまたま)学術を好む者ありといえども、藝術をもって主とし、道学をもって客とする故に、聞く所の深理みな藝術の奴(やっこ)となりて 広く用をなすことあたわず、いわんや心術を助くることあらんや、
藝術を修する者この所を自得せば、日々修するところの藝術 我が心を助けて、その本然(人間が本来持つ真理)の妙用を證(あら)わすべし、これにおいて藝術もまた自在を得べし、
然れども初めより執する所の一念捨てがたきものなり、
学術藝術ともにただこの私心さえ去れば、天下我を動かすものなくして応用無碍自在なり、私心は金銀貨財情欲偽巧の類のみにあらず、
不善にあらずといえども 一念わずかに執するところあれば即ち私心なり、
少しく執すれば少しく心体をふさぎ、大いに執すれば大いに心体をふさぐ、
藝術に達する者は、その業(わざ)の上においては私心の己を害すること明らかに知るといえども、広く心体応用の間に試みて知ることなし、心術を修する者といえども理は頓に(とにに・すぐに)知りやすく一念隠微の間は修しがたきものなり、
心術を修するも我なり、藝術を修するも我なり、この心二つあるにあらず、ここのところまた熟思すべし。
一、今事(わざ)熟し 気和し、勝負の利を試みてうたがうことなく、惑うことなく、神(こころ)定まって自在をなすもの多し、その妙用神のごとしといえども、いまだ恃(たの)む所あることを免れざるものは、舟人の船端を走り、瓦師の天守に登って瓦を敷くがごとし、これを兵法の上手という。
一、問う、如何にしていま藝術をもって道学を助けん、
答う、心は性情のみ 性は心体の天理、寂然不動にして、色もなく形もなし、情の動くところに因りて邪あり、正あり善あり、悪あり、情の変化によってその心体の妙用を見て、天理人欲の分かるるところを知る、これを学術という、
そこを知るは何者ぞや、すなわち自性の霊覚すでにそなわって欺くべからず、
誣う(しう・いつわる)べからざるの神明、これを知という、
世間の小知才覚をいうにあらず、小知の才覚は意識の間に出ず、意は心の知覚なり、
意識はもと霊明(真理に明かな霊性)に因るといえども、情の好悪にふれて発するが故に、意にもまた邪あり正あり、善あり悪あり、発して好悪の情をたすけて私の巧みをなくす、これを小知という、
自性神明の知は情の好悪にかかわらず純一にしてその利 理の照らすところ私なし、故に善もなく悪もなく、ただ明らかなるのみ、
意識これにしたがって私の巧みを用いざる時は、よく情を制して執滞なく、心体(心の本体)の天則にしたがわしむ、情 心体(心の本体)にしたがって好悪の執滞なく、恐惧(きょうぐ・おそれ)の動念なき時は、意識神明に和して知の用をなす、ここに至って意識の跡なし、これを母意という、
もし情欲をたすけてこれがために巧をなし偽をなし、種々転変してやまざる時は、我が心体(心の本体)を係縛(けいばく・つなぎとめ)し我が霊明(真理に明かな霊性)をふさぐ、これを妄心という、
凡人は情欲心の主となるが故に、この妄心のために転動せられて、我神(こころ)をくるしむことをしらず、
これ故に学術はこの妄心の惑いを払い去り、我が心体の天理を認めしり、その霊明(真理に明かな霊性)を開き、その天則にしたがうて小知の作為を用うることなく、
物はものに任せて物のために役せられず、事は来るに任せて求むることもなく厭うこともなし、故に終日思惟すれども、私なきが故に心をわづらわすことなく、終日事に労すれども神をくるしむことなし、
命に委(ゆだ)ね、義に決して、うたがうことなく惑うことなし、
我が心の誠を立て一毫(わずか)も志しを曲げることなく、
害を避けんが為に偽巧を用いず、
和を得んと欲して小知を事とせず、
生は生に任せてその道をつくし、
死は死に任せてその帰を安んず、
天地変動すれども、この心をうばわるることなく、
万物覆いきたれどもこの心を乱さるることなく、
思うて執滞せず、為してたのむことなし、
心を存し気を養い、決然と立って屈することなく、
おこたることなく、悠然として居て争うことなく、迫ることなく、
初学よりこの志しを立て、応接の耳目にふるる所のものをもって心を修するの器物とす、
理に大小なし、剣術の極則(ごくそく)もまたこれに過ぎず、
故にその藝術において修する所の業(わざ)をもって内に省み、日用常用の間に通じて心術を證(あか)せば、藝術もまた内に徹して相扶け(たすけ)、相養うてその益大なるべし。
浅きより深きに入り、卑を踏んで高きに登る、これ古 藝術をもって道学を助け、これを修して彼を得る手段なり、
もし年五十以上手足の働き自在ならず、あるいは病身または公用に暇なくしてその事を務むることあたわず、武士の職なれば心を用いざるも己に快からず、たとい手足は叶わずして頭は二つになるとも、
この心の二つにならざる所を執修せんと思わば、前に論ずるところの志しを立て我が心の変えざる所を修して、生死一貫の理開け、天地万物 我に碍(さまたげ)るものなくば、床に臥しながらも、公用は勿論 辻番 火の廻りをつとめながらも、心に映る所 耳目にふるる所の物をもって打太刀として、心の修行は なるべきことなり、
間暇ならば藝術に達したる人に逢うてその事(わざ)を習い、その理を聞いて心に證(あか)し、敵に向かうときは我がなるべき程のはたらきをなして死を快くせんのみ、何の憂うる所かあらん、
士たるものただ志しのくじけざるを要とす、
形には老少あり、強弱あり、病身あり、公用しげきものあり、
みな天のなす所にて我が得て私する所にあらず、
ただ志しは我にあって、天地鬼神もこれを奪うことあたわず、
かるが故に形は天の為せる所に任せて、我は我志しを行うのみ、
小人は天の為す所を怨みて我がする所を努めず、
天のする所は我が知力のおよばざる所なり、
その知力のおよばざる所を憂いて、我と神をくるしむ者は愚かなり。
一、問う、我に多子あり、年いまだ長ぜず、剣術を修すること如何にしてならしむ。
曰く、古は洒掃応対(さいそうおうたい・掃除や受け答え)より六藝(りくげい・士の学ぶべき六種の技芸、礼・楽・射・御・書・数)に遊んで後、大学に入りて心術をあらわす、孔門の諸賢もみな六藝に長じて道学を證する人多し、
年いまだ長ぜずして事理に通達する程の力なき者は、
小知を先にせず、師にしたがって差し当たり用の足る所として、事(わざ)を努め、手足のはたらきを習わし、筋骨を強うすべし、その上にて気を練り、心を修して、その極則(ごくそく)を窺(うかが)うべし、これ修行の次序なり、
二つ葉の木は柱に用うべからず、ただ添え木を立て曲がらざるように養うべし、ただ幼年のはじめより志し邪に往かしむべからず、志し邪にゆかざれば、戯遊のことというとも邪なきものなり、心邪なき時は正を害するものなし、
天地の間 用をなさざるもの稀なり、邪をもって害するが故に、その性を傷(そこな)うて用をなさず、
人心もと不善なし、ただ有生のはじめより常に邪(よこしま)をもって養う、故に薫習してしらず、自性を害して不善に陥る、邪(よこしま)は人欲これが根となる、
小人はただ己を利するをもって心とする故に、己に利あれば邪なれどもその邪(よこしま)をしらず、己に利あらざれば正なれどもその正を知ることなし、自らその邪正をわきまえ知らず、いわんやそのよって分かるる所を知らんや、
故に学術は人欲の妄動を抑え、心体天理の妙用を見て、邪正の由りて分かるる所をつまびらかにし、その妄心の邪をしりぞけ、自性の本体を害することなきのみ、天へ上ることにもあらず、地を潜(くぐ)ることにもあらず、邪しりぞく時は天理ひとりあらわる。
邪少しくしりぞけば天理少しくあらわれ、大いにしりぞけば大いにあらわれる、自ら心に試みてみるべし、
剣術もまた然り、もし初学より何のわきまえ知ることもなく、無心にして事(わざ)自然に応じ、柔をもって剛を制す、
事(わざ)は末なりといいて頑空惰気(中身の無いなまけ心)になりて、足もとのことを知らずんば、現世後世ともに取り失うべし。
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