天狗藝術論
大意
人は動物なり、善に動かざる時は必ず不善にうごく。この念ここに生ぜざれば かの念かしこに生ず。種々に変転して止まらざるは人の心なり。吾が心体を悟って直に自性の天則にしたがうことは、心術に志し深く学の熟せるにあらずんば あたわざるところなり。
故に聖人 初学の士において、もっぱら六藝(りくげい・士の学ぶべき六種の技芸、礼・楽・射・御・書・数)を教えてまずその器物をなし、これより修して大道(人の行うべき正しい道)の心法に原(たづ)ね入らむことをほっしたまう。幼年の時より六藝に遊ぶときは、心主とする所あって自ら鄙倍辞気(ひばいじき・いやしく道理に背く口のきき方)に遠ざかり、玩物戯遊(無用なものでもてあそびたわむれる)のこの心を淫することなく、放僻邪侈(ほうへきじゃし・わがまま勝手な悪い行い)のこの身を危うくするなし。外には筋骨の束を固くして病を生ずる事なく、内には国家の備えと成ってその禄を徒しく(むなしく・無駄に)せず、達して心術を證する時は大道(正しい道)の助けとなる。一藝小さきなりとしてこれを軽んずることなかれ。また藝をもって道とする、誤りあることなかれ。
巻之一
一、剣術者あり、かつておもえらく、いにしえ源義経の牛若丸といいし時、鞍馬の奥に入って大小の天狗と参会し剣術の奥意を極めて後、美濃の国赤坂の宿において熊坂という強盗に出会い、牛若一人にて大勢の悪盗どもを追い払い、熊坂を打ち留めたまうといい伝えたり。我この道に志し深く修行し、年あり(年数を数えた)といえども未だその奥意を極めずしてそのこころ充たざる所あり。我もまた山中に入り天狗に逢ってこの道の極則(ごくそく)を伝えんと夜中ひとり深山(みやま)の奥に入り石上に座して観念し、天狗を呼ぶこと数声、毎夜かくのごとくすれども答える者なし。
ある夜山中風起こって物すざまじき折ふし、色赤く鼻高く、つばさ生じてけしからぬ姿なる者、幾人ということもなく雲中にてたたき合う、その声おびただしく聞こゆ。しばらくあってみな杉の梢に座して、
一人の曰く、
理に形なし、器によってその用あらわる。器なければその理見るべからず。太極の妙用は陰陽の変化によってあらわれ、人心の天理は四端の情(人間が生まれながら持っている、修養によって仁・義・礼・智の四徳になるべき心)によってあらわる。剣術は勝負のことといえども、その極則(ごくそく)に及んでは心体自然の妙用にあらずということなし。
しかれども初学の士には かにここに至ること難し。故に古人の教えは形の自然にしたがって、縦横順逆の術をつくし、易簡にして強うる(無理をかける)ことなく、筋骨の束ねを正し、手足のはたらきを習わし、用にあたり変に応ずるのみ。
事(わざ)に熟せざれば、心剛なりといえどもその用に応ずるにあたわず。事(わざ)は気をもって修す、気は心を載せて形を使うものなり。
故に気は生活して滞ることなく剛健にして屈せざるを要とす。
事(わざ)の中に至理を含んで器(かたち)の自然に叶い、事(わざ)の熟するにしたがって気融和し、その含むところの理、自ずからあらわれ、心に徹して疑いなきときは事理一致して気収まり、神定まって応用無碍なり。
これ古の藝術修行の手段なり。故に藝術は修練を要とす。事(わざ)熟せざれば気融和せず、気融和せざれば形したがわず、心と形と二つになりて自在をなすことあたわず。
一、また一人曰く、
刀は切る物なり、槍は突く物なり、このほか何の所作を用いん。
それ形は気に従い 気は心に従う。
心動ぜざる時は気動ずることなく、心平らかにして物無き時は 気もまた和してこれに従い、事(わざ)自然に応ず。
心に物あるときは気ふさがって手足その用に応ぜず。
事(わざ)に心をとどめるときは気ここに滞って融和せず。
心を容れて強める時はその跡 虚にして弱し。
意を起こして治する時は、火を吹き立て薪の尽きるがごとし。
気先立つ時は燥き(かわき)、しまる時は凝る。
己を守り 待って応ぜんとすれば見合いというものになって、自ら己を塞ぎて一歩も進むことあたわず、かえって敵のために弄せらる。
懸の中の待、待の中の懸などいうこと悪しく心得れば、意にわたりて大いに害あり。
ここを防ぎかしこに応ぜんとする中に、無手にして健やかなる者(特に剣術などを修していないが強い者)におうて叩き立てられ、請け太刀になりて、打ち出すことあたわざる者多し。これみな意にわたる故なり。
かの無手なる者は応用の所作も知らず、ここを防ぎかしこを打たんとする心も無く、生まれつきたる健やか者故に、何の懼(おそ)れることもなく、人を蟲(むし)とも思わねば、心を容れて強むこともなく、凝ることもしまることもなく、待つこともなく、控えることもなく、疑うこともなければ動ずることもなく、向かいたるままにて思慮を用うることもなく、心気ともに滞ることなし。
これ世間に称するところの大方の兵法者より気の位は勝れたる所あり。然れどもこれをもって善とするにはあらず。彼は大水の推し来る勢いのごとく滞りなしといえども、暗くして血気に任せて無心なるものなり。
剣術は心体自然の応用にして、往くに形なく来るに跡なし。
形あり相(すがた)あるものは自然の妙用にあらず。僅かに念にわたるときは気に形あり。
敵その形ある所を打つ。
心頭もの無き時は気和して平らかなり。気和して平らかなる時は、活達流行して定まる形無く、剛を用いずして自然に剛なり。心は明鏡止水のごとし。
意念わずかに心頭に横たわる時は、霊明(真理に明かな霊性)これがために塞がれて自在を為すことあたわず。
今の藝者、心体不動の応用無碍自在なる所を知らず、意識の功を用いて末のこと(末節)に精神を費やし、これをもって自ら得たりと思えり。故に他の藝術に通じることあたわず。
藝術は多端なり、曲々に(心得を間違えて)これを修せば生涯を尽くすとも得ること有るべからず。
心能く一藝に徹せばその他は習わずして知るべき事なり。
一、また一人曰く、
刀は切る物なり槍は突く物なりという勿論の義なり、然れどもこれ理に過ぎて(理の事で)事(わざ)の用を知らざるものなり。切るに切る事(わざ)あり、突くに突く事(わざ)あり。事(わざ)の用を知らざる時は物に応ずること偏なり。心 剛なりといえども形そむく時は中(あた)るまじき所へあたり、事(わざ)の理違えば達すべき所へ達せず。
吾子が言(おぬしの言うこと)の如きは選んで精(くわ)しからず、語って詳ならずというものなり。
心体開悟したりとて、禅僧に政をとらしめ ひとかたの大将として敵を攻めるに、豈(どうして)よくその功を立てんや。
その心は塵労妄想の蓄え無しといえども、そのことに熟せざるが故に用をなさず。
且つ弓を引いて矢を放つことは誰も知りたることなり。然れどもその道によらずそのことに熟せず、みだりに弓を引き矢を放つときは、よく的にあたり堅きを貫くことあたわず。
必ずその志正しくその形直く、気総身に充ちて生 活し、弓の性に悖る(もとる・さからう)ことなく、弓と義と一体になり、精神天地に充つるがごとく、引いてやごろに充つる時、神定まって(精神が統一されて)念を動じることなく、無心にして発す。はなして後なお元の我なり。物に中って後静かに弓をおさむ、また弓道の習いなり。
かくの如くんば遠く矢を送り、よく堅きを貫く。弓矢は木竹をもって作りたるものなりといえども、我が精神彼と一体なるときは、弓に神ありてその妙(すぐれていること)かくのごとし。これ意識の才覚をもって得る所にあらず。
その理はかねて知るべけれども 心に徹し事(わざ)に熟し、修練の功を積むにあらざれば、その妙(すぐれた力)を得ることあたわざる所なり。
内に志し正しからず 外に体直(なお)からざれば、筋骨の束ね固からず。気総身に充たざれば強く引いてたもつことあたわず。
神定まり(精神統一され)気 生活する(活かす)ことなく、私意の才覚を用いてその道によらず、力をもって弓を押し 弦(つる)を引くときは、弓の性にさかって弓と我と相争って二つになり、精神相通ずることなく、かえって弓の力を妨げ勢いを脱す。故に遠く矢を送って敵を貫くことあたわず。
一、日用人事もまたかくのごとし。志し正しからず、行い直(なお)からざれば、君に仕えて忠なく、父母に仕えて孝なく、親戚朋友に信なし。人侮り衆悪(にく)み、物とならび立つことあたわず。
気総身に充たざるときは 内に病を生じ心乏しく、事に当たっておそれることあり、屈することあり、大義を立てることあたわず。
物の性に悖る(もとる・そむく)ときは人情にそむく、
物と離れて和せざるときは争い起こる。
神定まらざるときは疑い多くして事決せず、
念 動ずるときは内おだやかならず、事を誤ること多し。
一、心動ぜざるときは気動ずることなく、事(わざ)自然にしたがうというは、理体の本然(本来の無垢な性質)より説き下してその標的を示すのみ。
事(わざ)を修することは無用の費(ついえ・浪費)なりというにはあらず。
理は上(かみ)より説き下し、修行は下より尋ね上がること物の常なり。
人心もと不善なし。性(善性)にしたがって情欲にひかれざる時は 神くるしむことなく、物に掖して応用無碍なり。
故に「大学の道は明徳を明らかにするに在り」といい「中庸」(中国の古典)には率性之謂道(性にしたがうをこれ道という)というは、その大本の上より説き下して、学ぶ者にその標的をしめすものなり。
然れども凡情妄心の惑い深く、気質を変化して直ぐに自性の霊明(生来の真理に明かな霊性)にかえることあたわず。
これをもって格物至知(かくぶつちち・物事の真理を極めつくし)誠意正心の工夫を説き、自反慎独(自身を反省し人が見ていなくても心を正しく保つこと)の受用を説いて修行の実地を踏ましむ。これ事(わざ)の熟せるを待つものなり。
剣術もまた然り。敵に向かって生を忘れ死を忘れ、敵を忘れ我を忘れて念の動ぜず意をなさず、無心にして自然の感に任ずるときは、変化自在にして応用無碍なり。
多数の敵の中にあって前後左右より切りかけ突きかけてこの形は微塵になるとも、気収まり神定まって少しも変動することなく、子路の冠を正す(孔子の弟子・子路は死に際、刃に倒れながらも冠を正したといわれる)がごとくならば、豈(どうして)手を空しくして倒れんや。これ剣術の極則(ごくそく)なり。
然れどもこれ足代(あじろ)なくして直ぐに登らる道にあらず。必ず事(わざ)に試み 気を練り 心を修し、困勉の功 熟するにあらずんば、ここに至ることあたわじ。
吾子(おぬし)が言をもって初学(初心者)を導かば、頑空(中身がないもの)に成って心頭無物(無念無想)と心得、惰気(なまけ心)に成って和と覚(さと)る誤りあるべし。
一、また吾子が剛健にして無手なるもの(特に剣術などを修していないが強い者)というは、諸流に破るという兵法に似て少しく異なり。
彼は無方(決まりがない)なり。破るというは気剛健活達にして、敵を脚下に踏みしき、鋭気をも避けず虚をも窺わず、一途に敵の本陣を志して大石の落ちかかるごとく切り込むをいう。
然れども 無法(無方)にして気溢れるときは、事(わざ)の功者にあって表裏(仕掛け、あざむき)に陥ることあり、形の損得を知らざる時はあやまちあり。 故に形にも習いあり。守って己を失わず 気凝ることもなく、しまることもなく、生死を忘れ、すすんで疑うこと無きものなり。
気をもって破るあり 心をもって破るあり 共に一つなり。心気一つならざれば破ることあたわず。これ剣術の初門初学の入りよき道筋なり。ただし気怯弱(きょうじゃく・臆病)なる所あってわずかに疑惑する所ある時はこの術行わるべからず。
気に修練あり、心に疑惑を去るの工夫あり。 然れどもただ一偏の気象(これもひとつの心構え)にして心体応用無碍自在の妙術にあらず。
ここにおいて詳(つまびらか)に工夫を用い、理明らかに 功積もりて鋭気平らかならば、熟して本体に至るべし。
初学より無物(無念無想)の工夫のみなさば、骨を失い労して功無かるべし。
一、その中に大天狗とおぼしくて、鼻もさして長からず、羽翼も甚だあらわれず、衣冠正しく座上にありて語って曰く、
各々論ずるところみな理無きにあらず。
いにしえは情篤く志し親切にして、事(わざ)を務めること健やかにして、屈することなく怠ることなし。
師の伝える所を信じて昼夜心に工夫し、事(わざ)に試み、うたがわしきことをば友に尋ね、修行熟して吾と(自分で)その理を悟る。故に内に徹すること深し。
師は始め、事(わざ)を伝えてその含むところを語らず、自ら開けるのを待つのみ。これを引而不発(引いて発せず、近くまで引き寄せるが教えを明らかにしない)という。
吝て(おしみて・惜しんで)語らざるにあらず、この間に心を用いて修行熟せんことを欲するのみ。
弟子心を尽くして工夫し、自得する所あればなお往きて師に問う、師その心に叶うときはこれを許すのみ。師の方より発して教えることなし。
唯藝術のみにあらず。孔子曰く、一隅を挙げて三の隅をもって反(かえ)さざる者には復せず(一つの隅を教えて他の三つの隅を悟るほど向学心が強い者でなければ教えられない)と。これ古人の教法なり。ゆえに学術藝術ともに慥(たしか・確か)にして篤し(あつし・真心がこもっている)。
今人情薄く志し切ならず少壮(小さな頃)より労を厭い(いとい)簡を好み、小利を見て速やかならんことを欲するのところもって古法の如く教えば、修行する者あるべからず。
今は師の方より途(みち)を啓きて、初学の者にもその極則(ごくそく)を説き聞かせ、その帰着する所をしめし、なお手をとってこれをひくのみ。
かくのごとくしてすらなお退屈して止む者多し。
次第に理は高上に成って古人を足らずとし、修行は薄くいながら、天へも上る工夫をするのみ、これもまた時の勢い(時代の流れ)なり。
人を導くは馬を御するがごとし。その邪にゆくの気を抑えてその自ら進むの正気を助けるのみ。また強いることなし。
一、事(わざ)に心をとどむ時は、気ここに滞って融和せず、
(しかし、だからといって)
末を遂って本を忘る(末端を追って本義を忘れる)というは可なり(まだよいが)、
一向に(技をことごとく)捨て 修すべからずといわば不可なり。
事(わざ)は剣術の用なり。
その用(動き)を捨てば体の理 何によってかあらわれん。
用を修するによって体を悟ることあり、体を悟って用の自在なることあり。体用一源顕微間なし(僅かの隙間もない)。
理は頓に(とにに・すぐに)悟るべけれども、事(わざ)は習熟にあらざれば気こって形自在ならず。
事(わざ)は理に因って生ず。
形なきものは形あるものの主なり。
故に気をもって事(わざ)を修し、心をもって気を修するは物の序なり。
然れども事(わざ)習熟して気おさまり神定まることあり。
舟人の棹を取って舷(船端)を走ること大路を走るがごとし。彼なんの工夫をかなさんや、ただ水に習熟して大水に入りても死せざることを知る。故に神定まってこれ自在をなす。
樵夫(きこり)の重き薪を荷って細きそば路を伝い、瓦師の天守に登って瓦を敷く、皆その事(わざ)に習熟してうたがうことなく惧るることなし。かるがゆえに神定まって自在をなすものなり。
剣術もまた然り。この藝に習熟して心に徹し、事(わざ)に試みて疑うことなくおそれることなき時は、気活し神定まって、変化応用無碍自在なり。
然れどもここまでは気の修練にして自ら知ることなり。
たのむことあって然り、故に言をもって論ずべし。
かの無心にして自然に応じ、往くに形なく来るに跡なく、妙用不測なる者は、
心体の感通
思うて得るべきところにあらず聞いて知るべきものにあらず、自修の功積んで自然に得るのみ。
師はその道脈を伝えるまでなり。容易に論ずべからず。故に世に稀なり。
一、問うて曰く、
然からば我ごとき者の修して得べからざるの道か。
曰く、
何ぞ得べからざらんや。聖人にさえ学びて至るべし。いわんや剣術の一小藝をや。
それ剣術はだいたい気の修練なり。ゆえに初学には事(わざ)をもって気を修せしむ。
初学より事(わざ)を離れて気を修する時は、空にしてこころむべき所なし。
気を修すること熟して心に達すべし。この間の遅速は性質の利鈍によるべし。
心の妙用(すぐれた働き)を知ることは易く、おのれに徹して変化自在をなすことは難し。
剣術は生死の際に用いるの術なり。
生を捨て死に赴くことは易く、死生をもって二つにせざることは難し。
死生をもって二つにせざる者よく自在をなすべし。
問う、
然からば禅僧の生死を超脱したる者は剣術の自在をなすべきか。
曰く、
修行の主意異なり。彼は輪廻を厭い寂滅(じゃくめつ・生死の超越)を期して、初より心を死地に投じて生死を脱却したる者なり。ゆえに多勢の敵の中にあってこの形は微塵になるとも、念を動ぜざるは善くすべし。生の用はなすべからず、ただ死を厭わざるのみ。
聖人死生一貫というはこれに異なり。生は生に任せ 死は死に任せてこの心を二つにせず、ただ義のある所にしたがってその道を尽くすのみ。これをもって自在をなすものなり。
一、問う、
生死に心無きことは一つなり。然るに彼(禅僧)は生の用をなさずこれ(剣術)は自在をなすものは何ぞや。
曰く、
初めより心を用いる所異なり。彼は寂滅(煩悩からの脱却)を主として生の用に心なし、ただ死をよくするのみ。ゆえに生の用においては自在をなすことあたわず。
聖人の学は死生をもって二つにせず、生にあたっては生に尽くし死にあたっては死の道を尽くす。一毫(いちごう・わずか)も意を作し念を動ずることなし。ゆえに生においても自在をなし死においても自在をなす。彼は造化(天地世界)をもって幻妄(まぼろし)とし、人間の世をもって夢幻泡影(はかない夢まぼろし)とす。
故に生の道を尽くすをば、生に着してこの営みをなすと思えり。かれ平生の形相をもって見るべし。文字を離れ君臣を廃し、爵禄を班ず(しゃくろくをつらねず・地位名誉を必要とせず)武備を設けず、聖人の礼楽刑政(社会)を見ること、嬰児の戯遊を見るがごとく思えり。
平生捨てて用いざるの剣術何ぞここに心あらん。ただ死にあたって生を惜しまず、一切世間みな心の所変なること(一切の世間事はすべて心のこと、その変化であること)を知るのみ。
一、問う、
古来剣術者の禅僧に逢うてその極則(ごくそく)を悟りたる者あるは何ぞや。
曰く、
禅僧の剣術の極則(ごくそく)を伝えたるにはあらず。
ただ心にもの無きとはよく物に応ず。生を愛惜するゆえにかえって生をくるしめ、三界カ窟(仏教で欲界・色界・無色界)のごとく一心顛動(いっしんてんどう・うろたえ平静を失う)するときは、この生を誤ることをしめすのみ。
彼 多年この藝術に志し、深く寝席を安んぜず(寝る間もおしんで)、気を練り事(わざ)を尽くし、勝負の間において心なおいまだ開けず憤懣して年月を送る所へ禅僧に逢うて生死の理(ことわり)を自得し万法唯心の所変なる所(世の中のすべては心のこと、その変化のこと)を聞いて心たちまち開け神(こころ)定まり、たのむ所をはなれてこれ自在をなすものなり。
これ多年気を修し事(わざ)に試みて、その器物をなしたるものなり。
一旦にして(簡単に)得るにはあらず。禅の祖師の一棒のもとに開悟したるというもこれに同じ、倉卒の(にわかにできる)事にあらず。藝術未熟の者、名僧智識と逢いたりとて開悟すべきにあらず。
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