達人、名人のエピソード集です。山岡鐵舟、千葉周作、塚原卜傳、柳生但馬守宗矩、宮本武蔵、荒木又右衛門、樋口十三郎、林田左門、神谷傳心齋、浅田九郎兵衛、柳生十兵衛三厳など。
(異説がいろいろとあります)
名家至妙鈔
剣禅一如 (鉄は名前のみ旧字の鐵を使用しています)
山岡鐵舟は剣道に精進するとともに、禅の修行を積んだから、後年の鐵舟は武道家として完全に近い人格を築きあげた。参禅の動機は、一刀流の浅利又七郎義明の突きを貰ったことに始まる。
この義明は初代浅利又七郎義信の養子で、四代目中西忠太(小野派一刀流)の二男であった。鐵舟が初めて又七郎義明と手合わせをしたのは、文久三年のことで彼二十八歳の時であった。既に二十一歳から『鬼鐵』という異名を附せられていたほどで、彼の諸手突きときては、大抵の者がふるえ上がったという。その『鬼鐵』鐵舟の突きをもってしても、又七郎義明には歯が立たないばかりか、かえってあべこべに突きを貰って、仰向けにひっくり返ってしまった。
『こいつはいかん』と鐵舟はすっかり考え込んでしまった。そのはずで、又七郎は初代二代とも突きを最も得意として、初代又七郎のごときは、一刀流きっての名手と言われ、そのめがねに叶って養子となり、鍛え込まれた二代目又七郎であるから、突きは二代を通じて工夫を加えた自家の秘剣であった。
鐵舟は兜を脱いで、直ちに又七郎の門に入った。そして専心修練を積むこと実に二十三年。口でこそ二十三年だが、壮年二十八歳から初老五十一歳までというのだから、その精励と忍苦とは到底常人の企て及ぶところでなかった。
浅利道場へ入門の二十三年間というものは、又七郎の前へ出ると、猫の前の鼠のように身がすくんで、竹刀も、腕も、心も、少しも自分のものでないような気持ちであった。
『いかん、到底いかん』
そこでふと思い出したのが、養父山岡静山の言葉、
『人に勝つには技よりも心だ、心を磨き徳を修めねばならぬ』ということであった。
『そうだ!』と決心したのが禅の修養であった。当時江戸近くでは、伊豆三島の龍沢寺星定和尚が禅僧として名が高かったので、江戸から幾回か通うことにした。朝暗いうちに江戸をたって、途中大部分を駕籠で急いでも、三十余里の三島へ着くのは、翌日の明け方近い頃である。休息も取らず直ぐ和尚の前へ出て説示を受けて、また江戸へ帰ってくる。鉄のような意思の持ち主でない限り到底できないことである。こうして永い間禅の修養を積んだ時、師の坊から『本来無一物』という公案を授けられ、濶然として悟道した。以来この心を剣道には勿論、日常にも心の導きとした。剣と禅の修養を併せ積んで、ついに二十三年目に、又七郎の突きを恐れぬ泰山のような心魂が据わった。本来無一物の剣禅一致の妙境に達し得たからであった。
相手に勝ちたい、相手より優れた技を修めたいという心がある間は、どうしてもその所へ達することが出来なかったのが、心の修養を積んだ結果、又七郎の前に立っても、我無く相手無き無念無想の境地に我を置くことが出来るようになって、初めて又七郎の突きに破れぬだけになることが出来たのである。
『うむ、それまで、それでこそ二十余年の修行のかいがあった』と又七郎は涙を流して喜んだ。
鐵舟は一刀流から出て、新たに一流を編み出して、これを『無刀流』と称した。道場を『春風館』と名付けて門弟を取り立てた。
*追記 山岡鐵舟が禅の教えを受けたのは龍沢寺星定和尚だけでなく、『武州柴村長徳寺の願翁、京都相国寺の独園、京都嵯峨天龍寺の滴水、相州鎌倉円覚寺の洪川』の計五人にのぼったといいます。また、悟道の様子は、『「夜は復 沈思精考すること約五日、同月二十九日の夜、従前の如く専念呼吸を凝らし釈然として天地物無きの心境に座せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日の払暁となれり。此時余猶座上にありて浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり」
然るに従前と異なり、剣前さらに浅利の幻身を見なかった。そこで浅利を招いて試合を試みたところ「浅利突然刀を抛ち兜を脱し容を正して、(中略)子既に達せり矣。到底前日の比にあらざるなり。余亦及ぶ所にあらず」といって一刀齋所伝の夢想剣の極致を鐵舟に伝えたという。同時に滴水和尚からもこの日付で印可を受けた。』とあります。
(日本剣豪史より)
北辰一刀流夢想剣
安政元年の春のある夜のこと、六十一歳の千葉周作はさすがに年のせいで、春の夜寒に風邪をひいて臥床していた。昼間は勇ましい音の聞こえる道場も森閑として、町には人通りが稀になった十時半頃、けたたましく表門を叩く音が、あたりの静けさを破って聞こえてきた。周作は聞き耳を立てた。下男が門を開けたらしく、やがて玄関の方で取り次ぎの門弟が何か応答しているらしい声が聞こえた。門弟が間もなく次ぎの間で来て声を掛けた。
『先生、お目覚めで御座いますか』
『うム』
『大手町の○○家のお茶道春斎と申す者が、急に先生にお願いがあって参ったと申しますので、先生ご病気の由を申しますと、次ぎの間までで宜しいと申しますが、いかが致しましょう』
『用向きは?』
『醜くない殺され方を、先生にお教え願いたいのだと申しております』
『変わったことを… とにかく通してみよ』
取り次ぎに案内されてきた春斎、もとより周作においては一面識もなかった。
『醜くない殺され方を知りたいとのことじゃが、一体どうした事じゃな?』
そこで春斎は手短かに、
『主公の急のご用で駿河台まで来る途中、護持院ヶ原で浪人の辻斬りに遭ったので、主命を果たすまで待て、必ず帰りには斬られに来ると約束致しましたので、私も丸腰の人間とはいえ、大名家に仕えて禄を食む者、命が惜しくて約束を破ったとあっては、主君のお名にかかわります』
『面白い気象じゃ』
周作は静かに起き上がり、枕元の一刀を取ってスラリと抜いて、諸手大上段に振りかぶって眼を閉じ
『この通りに構えて見よ』
と春斎に刀を渡し、脚の開き方、丹田への力の入れ方、呼吸の使い方等すべて巨細に説明して、
『よろしいか、身体のどこかが冷やりッとしたと思ったら、ただ打ちおろすのだ、それだけだ、必ず醜くなく死ぬことが出来る』
『先生。ありがとう御座います』
その一刀を借りて春斎が再び護持院ヶ原へ来ると、浪人は捨て石に掛けて待っていた。
『坊主、来たか』
『約束に依って斬られに来た、さァ斬れ』
言うとともに春斎は教えられた構えを取って眼を閉じた。一刀を星眼につけてジリジリ寄った浪人、しばらくして、
『坊主、なかなか遣りおるの、相討ちになってもつまらぬ、引くぞ』
浪人は鍔音高く刀を収めると、スタスタと行ってしまった。その後周作が人に語って、
『相手を斬ろうの、自分が生きようのという念がなかったから、春斎には夢想剣の真意が立ち所に会得できたのだ』と言った。
卜傳流武道真髄 (伝は名前のみ旧字の傳を使用しています)
卜傳(塚原ト伝・ぼくでん)は名を高幹(たかもと)といい、常陸鹿島明神の神官 ト部覚賢(うらべあきかた)の二男で、同国の武芸者 塚原土佐守(とさのかみ)の養子となった。土佐守は『神道一心流』の開祖で、卜傳はこの養父について流儀の皆伝を得た上に、上泉伊勢守について『神陰流』の極意を授けられ、双方の長所をとって世にいわゆる『卜傳流』なるものを編み出したのである。
卜傳の逸話で有名なのが三つある。第一は、諸国遍歴中近江の湖水を渡る乗合船で、武芸高慢の武者修行者を懲らしめたあの『無手勝手流』の一件。
次は卜傳の高弟が跳ね馬の後ろをうっかり通りかかって、危うく蹴られようとした時、燕の如く身を翻して衆人を感嘆せしめたのに対して、卜傳はそういう馬の後ろを通る時は、静かに避けて通ったという話。
第三は、卜傳がその三子に対して、自家の剣法を継ぎ得る者は誰かと試したという話。
この三つの逸話はいずれも卜傳が剣聖としての平素の心構えや身の修養のほどを窺うに足るものであるが、なかでも第三の話がもっとも卜傳の卜傳らしいところを遺憾なく現している。
ある日卜傳は帳(とばり)の 内にいて まず長男の彦四郎を呼んだ。帳の上には木枕を載せて、軽く触れても落ちるようにしてあった。帳の外へ来た彦四郎は、
『父上、ご用で御座りますか』といって静かにあたりを見回した。例の木枕が見えた。
『入ってまいれ』
『はい』彦四郎は木枕を取りおろし、内へ這入って、木枕を元の位置に直した。
次に二男の彦五郎が呼ばれた。彼は無造作に帳に手を触れたので、コロリと木枕が落ちてきた。ひょいと両手に受けて元のごとく直してから、父の前へ両手をついた。
三男彦六はつかつかと這入るとたんに木枕が落ちて髻(たぶさ・髪を集めた所)に当たった『エイッ』と腰の一刀をひらめかしたと思うと、木枕は床に落ちる前に二つになった。
兄弟三人三様の性格、心構えであったが、卜傳は我家の剣法を継ぐ者は彦四郎のほかにはないと思って、伝家の一刀を長男に授けた。
敏活神速の技は剣道においてはそもそも末技であり、不断に周到の心構えを怠らぬこそ、武道家の忘れてはならぬ所であるというのが、卜傳流武道の真髄であることが、これでよく分かるのである。名人の武術というと、はなばなしく飛ぶ鳥のごとく駆け引きすると一般に思い込んでいるのは、講談などから誤り信じられたことである。
*追記 卜傳は『二十三歳から、七十二歳までの五十一年間に、出陣回数三十九回におよび、その間真剣勝負十九回を数えている。』ほど実体験が豊富でした。彼の「卜傳百首」の終わりのほうには
もののふの学ぶおしえはおしなべて そのきわまりは死のひとつなり
もののふの迷ふ所は何ならん いきぬいきぬのひとつなりけり
もののふの生死のふたつ打捨てて 進む心にしくものはなし
があり、『生死を越えた生死一如の境地こそが“一つの太刀”の真意であろう。』 といわれます。 (日本剣豪史より)
虚の構え
剣道の構えには、五法といって、五つの構え方がある。上段、中段(星眼)、下段、左右脇構えがそれである。一刀流などでは、この五法のうち星眼が最も有利であるとして、これを本構えとしているけれど、元来構えは、宮本武蔵も説いているように、そうしなくてはならぬという居付のものではなく、また右の五法に限られたわけのものでもない。いかに構えが堂々として立派なものであっても、次の変化に応ずる最も有利なものでなかったら、たちまち敵に破られることは明白であるし、また破られぬ構えというものを、仮に工夫してみたところで、敵の方でも破る工夫をするに相違なく、決してその構えが不易のものになるわけにはいかない。
『然からば、いっそ、構えというほどの構えもせず、敵の起こる頭に対して、自由自在に行ってこそ、初めて勝ちの構えと申すことができる』
こう言って『虚の構え』というのを唱え出したのが、柳生但馬守宗矩である。やや極端のきらいがあるようだが、剣道も実はそこまで修行が進まぬと、本当の剣道とは言われないのではあるまいか。
関ヶ原の役後、宗矩がまだ但馬守と任官しない頃のことである。一日、さる大名の邸へ招かれて行くと、同家に近頃召し抱えられた一人の武芸者があった。
色々と武芸の話から、その大名が、新規召し抱えのその武芸者と宗矩の試合を所望した。宗矩は一応は辞退したけれど、その武芸者もしきりと、
『ぜひ、一手ご教授をお願い申し上げます』
というので、ついに立ち合った、なるほど主人が内心自慢しているらしいほどあって、相当に使える武芸者であった。
例によって宗矩は『虚の構え』で、無造作に木剣をとって、突っ立ったような姿勢である。
『エイッ』『オーッ』
気合いがあった時、双方の木剣が真夏の陽炎のように走った。試合はそれで終わった。
『ほう、相打ちであったのう』と大名はさも満足そうに言った。将軍家直参の名剣士柳生又右衛門宗矩と、自分の新規召し抱えの家来とが、互角の勝負をしたと思ったからである。
『はばかりながら、手前の勝ちでござります』と宗矩は微笑した。
『ええ?』
『いや、殿ご判定の通り、手前も相打ちと心得ます』と武芸者も言った。
『竹刀打ちでは、いかにも相打ちと思われましょうが、勝負はわずかに紙一枚の差、只今のがもし真剣でございましたら、明らかに手前の勝ちでござります』
こうなると、武芸者の方では、新主人の手前、もう謙遜したり、譲ったりしてはいられない。
『柳生殿、ではお言葉に従い、真剣勝負をお願い申す』と言葉は静かだが、内心勃然としている。
『それは無益のことで御座る』
『いや、左様では御座るまい、只今の木剣試合、勝負のほどが判然いたさぬに、貴殿は真剣ならば貴殿の勝ちと言われる。武道の上からも、これは真剣勝負を試みて、貴殿のお言葉が真か、手前申すところが真か、黒白を分かつべきでは御座るまいか』
『では、やむを得ぬ、お相手申そう』
立ち合いの結果は宗矩の言葉の通り、武芸者の方が一刀を肩口に浴びて倒れた。
『ウーム』大名は唸るような声を発したきりであった。
宗矩は大名の前近く進んで、
『御免』といって左の片肌を押し脱ぎ、脇下を指して、
『ご覧くだされ、上の衣服二枚は切れておりますが、肌着は切れておりませぬ。手前が肩口に斬り込んだのと、相手が手前の胴を切ったのと、今回も相打ちでございましたが、勝負はご覧の通り、手前の勝ちと相成りました。もう紙一枚だけ、相手の刃が進めば、手前も負傷いたしますが、ここが木剣と真剣の相違で、木剣では相打ちでございましても、真剣では必ず勝負が決しまする』
大名をはじめ並み居る者、いずれも一言もなかった。
高柳の音無しの竹刀
高柳又四郎は小野派一刀流中西流の四代目忠兵衛子正の高弟で、寺田五郎右衛門、白井亨とともに中西の三羽烏(さんばがらす)と呼ばれた。三羽烏中高柳は特に竹刀打ちの名人で、いざとなって立ち会うと、彼の竹刀に竹刀を触れて、音を立てた者がかつて一人もないので、高柳の竹刀は音無しだ、音無しの勝負だと言われたものである。間合を遠くとって、相手の起こる頭へ電光石火の打ちを入れるので、竹刀の触れ合う機会が無いのである。
『高柳先生、一本御稽古を願います』
『やア、千葉か、近頃たいそう腕前を上げたそうだな、好もしい相手だ』
『どうかお手柔らかに…』
『その斟酌(しんしゃく)はせぬぞ、わしは自分の稽古のために遣るのだから、遠慮も会釈もせぬ』
『打たれることはどれほど打たれても厭いませぬ、打たれるほど修行になります』
『見上げた心がけだ』
双方身支度をして立ち会うと、千葉はいきなり大上段に取った。一刀流は星眼が流儀の本位であるし、ことに上段は劣った相手に対する構えとされているので、高柳は内心勃然とした。が千葉の方では負けることを覚悟の上で捨て身に出ているので、高柳としても迂闊なことはできない。仕方なく星眼につけてしばらく機を見た。打ち込んでいく隙はあるが、行けば必ず相打ちになる。千葉と相打ちの勝負をしたとあっては高柳の面目が立たぬ。よし、誘いだ!
『やッ』とわざと一歩踏み出すと、果たして千葉が乗った。
『えいッ』と真っ向から、崖を落ちる岩のように、あの大兵の大力が、渾身の勇を込めて打ち込んできた。瞬間高柳は引き外して、後の先で、引き切りに小手を打ったが、どうしたことか高柳の竹刀に発矢と音がして、同時にミリミリと道場の床板が折れた。
『引き分けッ』師範の声がかかった。むろん千葉の面も極まらず、高柳の小手も外れた。
『しかし、高柳の竹刀に音を立てただけ、千葉の方へ半星を与えてもよいのう』と師範の忠兵衛が笑いながら言った。
千葉周作の修業時代、どんなに稽古に魂を打ち込んだかという逸話として、中西の道場で長く話柄とされた。後年千葉周作が唱えた一足一刀の打ち込みということの これが好標本でもあった。
難試合二名人
宮本武蔵と荒木又右衛門とが、同じ伊賀国で、時に前後はあるが、等しく鎖鎌の達人を相手に、難試合をした興味深い話。武蔵の場合には相手は宍戸某、又右衛門の時は山田真龍軒であった。
武蔵は生涯を通じて六十数回の真剣試合をしたが、一回だも敗を取ったことがないばかりか、かすり傷ひとつ受けなかった。五十余歳に達した時には、もはや武道についてはこれ以上研究することがないと、自著の『五輪書』中に述べているほどであるから、武道の極意を極め尽くしたことは言うまでもないが、また一面非常に試合上手であったようである。ずっと後代の千葉周作が、この点では武蔵とよく似たところがある。
ところで、伊賀で宍戸某から試合を挑まれたのは、武蔵中年の武者修行時代で、もとより武蔵は快諾を与えたのだが、さて立ち会って見ると、宍戸の鎖鎌は実に精妙で、武蔵ほどの者にも手に余って見えた。鎌の柄の頭に長い鎖を結びつけ、その端に分銅が付いている。それをりゅうりゅうと振り回すのだから、容易に近づくことが出来ないし、あやまってその分銅に触れようものなら五体が微塵になってしまう。鎖鎌は分銅で相手の体を打つばかりでなく、武器に鎖を巻き付けて引き寄せ、利鎌で切りつける。つまり離れても近寄っても、誠に始末に困るのがこの鎖鎌である。東海道を伊賀に入ったこの時代の武者修行者達は、大抵彼のこの鎖鎌に悩まされたもので、武蔵が今その難試合の矢面に立ったのである。
ずんと間合を遠く取って、武蔵は軽い脇構えで立っている。宍戸は振り回す分銅に速度が加わるにつれて、歩一歩進んでくる、武蔵は歩一歩退く。と、宍戸が小さく水車のように回している鎌を持った右手を、強く前方へ伸ばしたと思うと、唸りを持った分銅が、武蔵の鼻先一寸(約三センチ)のところを、風を切ってかすめた。脳天を狙って投げかけてきたのであった。刹那、
『エイッ』脇構えの武蔵の右手が、小刀の柄に触れたと見ると、白昼の電光のように、眼にもとまらず飛んだのが、狙い違わずはっしと宍戸の胸を貫いた。
『アッ!』思わず発した宍戸の声であるが、その時には武蔵の大刀が、脇構えから宍戸の真っ向へ走って、いわゆる唐竹割に相手を斬り倒していた。その敏活さは実に形容の外であった。
又右衛門の場合は一層難局に陥った。真龍軒のほうが宍戸より技がすぐれていたのでもあろうが、又右衛門が星眼に構えた太刀は、ついに鎖に巻かれてしまった。
『エイッ』と真龍軒が強引した。巻き付けられて、ハッと思った刹那に引かれたのだから、大抵の者は思わずよろけるか、あるいは武器を離すのだが、そこは又右衛門、あの大力でグッと踏みこたえた。鎖がピンと張ったところで、真龍軒がまたグッと引いた。
『アッ!』思わずよろけた真龍軒の体の崩れ、その手許へ弾んだ鞠のようになって飛び込んだ又右衛門の手には、既に血染めの小刀が握られ、真龍軒はもうそこに倒れていた。二度目に真龍軒が引いたとき、又右衛門は応えると見せて大刀を離し、相手の体の崩れに飛び込んで、小刀で胸を刺したのである。
これは又右衛門が数馬らと共に、敵を探して最初に伊賀に入った時で、もしこの試合に負けたら、あの伊賀越えの要撃はなかったであろう。
武道のために
『…文武ぶんぶと夜もねられず』という落首は、老中水野越前守忠邦の天保改革に対して、市井で読まれたものである。水野の改革は今日でいえば綱紀粛正民心作興といったような狙い所のもので、弛緩しきった旗本の士気を振起するために、文武の興隆を図った。文武のことをやかましく言い出したから、それを蚊の鳴き声に引っかけて、さっそく落首が飛び出したわけである。ところで水野は武道振興の一方法として、当時江戸第一と言われた『北辰一刀流』の千葉周作を招いて、これと『直心影流』の男谷精一郎信友とを試合させ、旗本の間に武道精励の気運を促そうとした。
『それならば、むしろ千葉、齋藤、桃井の三名人を召して、寛永の昔にならい、御前試合を催されてはいかがでございましょう』という者があったが、水野はさすがに傑出した政治家だけあって、この三名に試合をさせて、誰が負け誰が勝っても、各々千、二千の門人を有しているので、、勢いの激するところ、どんな事件が起こらぬとも限らないと考え、やはり千葉、男谷の試合にとどめた。いうまでもなく齋藤は九段練兵館の齋藤弥九郎(神道無念流)であり、桃井はあさり河岸に道場を持つ、桃井春蔵(鏡新明知流)であって、千葉周作を加えて、いわゆる幕末の三剣士である。
さて、日を定めて千葉、男谷の試合となった。千葉は他流試合では一切負けたことのない名人で、当年四十八歳、武芸も人物も円熟の絶頂である。男谷はずっと年下の三十二歳、しかし宝蔵院流の槍術、吉田流の弓術、平山流の軍学、剣は直心影の正統団野元之進について奥義を極め、自ら新工夫を加えて男谷流という流派を称えたほどである。旗本であるから、水野をはじめ幕府当路は、
『どうか男谷に勝ってもらいたいものだ』 と内心思った。千葉は剣客ではあるが浪人である、浪人剣士に旗本剣士が敗れたとなると、せっかくの武道振興策が妙な結果になるかも知れぬ。
双方支度をして道場の中央に出で、慇懃に礼を交わし、ヤッと立ち会った瞬間、千葉は早くも、それほど恐れる敵ではないと男谷を観破した。千葉は自ら著した武道書にも書いているように、彼の中年以後における他流試合では、立ち会った刹那のこの観察に、決して誤りがなかった。で、この勝負も結局は自分の勝ちだと思った。
ややしばらく双方呼吸を詰めて機を伺った後、二三合あったが、ただ竹刀がわずかに触れ合っただけである。変化の激しい千葉の鋭い剣法であるから、この二三合の間に勝ちを制するはずのが、胴を打ち込んだ千葉の剣が、思いの外に男谷のために右へ払い落とされ、
『参った』といって飛びさって竹刀を投げ出した。
『千葉先生、まだ勝負はなりませぬぞ』男谷はむしろ、後の先で打ち込もうとした所を、千葉に身を引かれたので、張り合い抜けがしたほどであった。
『いや我等の及ぶ所ではござらぬ。幕府お旗本に貴殿のような御名手の居られますことは、今回の武道御奨励に当たって、誠に喜ばしいことでござる』
千葉のこの挨拶をジッと聞いていた水野越前は、なるほど千葉は人物も出来ていると思った。水野の改革の意をよくのみこんでいて、武道興隆のため勝ちを譲った千葉の心がよく読めたのである。
*追記 千葉周作について、日本剣豪史では
『周作は容貌魁偉、身長六尺(約百八十センチ)近く、面長で眉秀で、鼻が高く、眼光鋭く腕力抜群であった。六寸(約十八センチ)厚さの碁盤を片手でもち、五十匁掛け蝋燭の火を扇り消したと伝えられている。また文学を愛し和歌、俳句をたしなみ書をよくした。遺墨に「夫剣者瞬息、心気力一致』という文字がある。彼の剣法の要諦であった。〜』
また、男谷信友については
『世に剣豪と称される者の多くが、巨人で腕力抜群であるに比べて、男谷は普通の体格で幾分肥り気味、温厚柔和な人柄であった。酒を愛して溺れず、妻奴を叱らず、「毎朝早起きして座敷を手づから掃除し、必ず矢場に射を試み、雨ふれば読書して朝饌を待つこと二六時中更に変わることがなかった」(日本剣道史)。忠孝信義を座右の銘とし、一夫一婦を守り、刀剣を愛し、書画をよくし、とくに書画には一家の風があった。他流試合を求められ、かつてこれを拒んだことがなく、どのような相手にも三本のうち一本は花を与えるというゆかしさがあり、君子の風格をそなえ敵が無かった。』
と紹介しています。
試合から無二の親交
昔の武芸試合は、今日のスポーツ競技などと違って、一命を賭してかかったのであるから、往々その試合から種々な事件が持ち上がった。ことに武芸をもって禄を食んでいた者は、晴れの試合に負けると、その地位にまで動揺を来すので、口惜しい残念と思う心が意趣遺恨に変わって、ついに相手を闇討ちにして出奔する。それを遺児や家来や門人が、不倶戴天の敵とするという事件は、封建時代には枚挙に暇ないほど頻発した。
ところがここにそれと正反対に、命がけの試合をしたため、それが機縁となって、その後兄弟もただならぬ親交を結んだという美談がある。荒木又右衛門(柳生新陰流)と樋口十三郎(真庭念流、馬庭とも)とがそれである。
十三郎は念流の 開祖 樋口十郎左衛門兼興の実子で、十九歳で父から皆伝を得たほどの武芸の天才であった。諸国遍歴に出て、出羽の磯端伴蔵(いそばたばんぞう)について磯端神陰流の奥秘を極め、その紹介状を持って江戸へ出て、柳生家の後ろ盾で上槙町に道場を開いた。非常な人気で、将軍家光の耳にまで名声が聞こえてきた。当時荒木又右衛門はすでに名剣士として聞こえが高かったので武道に熱心な家光は、右の両人に試合をさせてみたいと、その事を大久保彦左衛門に命じた。両人は彦左衛門の邸へ召されて、微行(お忍び)の将軍の御前で、柳生飛騨守審判のもとに立ち会った。又右衛門も十三郎も共に三十七、八歳という、武道家として脂の乗りきった年配であった。
双方とも二尺余り(約六十センチ)の木剣を取って相星眼に構えた。『仕合一刻に及ぶ』というから今日の二時間、しかもその間木剣には一度も相触れる音を立てず、二人が同時に、
『参った』と言って木剣をおいた。双方額から脂汗をたらした。
『水を、早く』飛騨守が介添え役に命じた冷水を、又右衛門と十三郎が一口呑んで、改めて将軍の方へ両手をついた。
『只今の勝負、両人相打ちに御座りまする』と飛騨守が説明したが、将軍にはそれがよく分からなかった。双方の木剣がわずかに相触れたかと見えただけであったからだ。十三郎は小手を切られ、又右衛門は面を打たれたが、その間に先後がなかったという飛騨守の詳しい説明があっても、その技が眼にとまらなかった将軍には、ついに合点がいかない有様であった。名人のこの試合が、非常に家光の興味をそそって、数年後のあの歴史的な寛永御前試合の催しとなったのだと伝えられている。大久保彦左衛門はことに両人の武芸に感嘆して仲に立って、二人の親交を結ばせた。
なお寛永御前試合に『真庭念流』を代表して出場したのは、この十三郎ではなく、樋口十郎定勝で、中條流の中條五郎兵衛と会ってみごとな勝ちを取った。世間ではこれを混同しているようである。
一人対多人数
芝居や映画を見ると、一人で十人、二十人、多いときには五十人、八十人相手にして、チャンチャンバラバラと斬り合いをする場がよくあるが、あんなことは実際には決して出来るものではない。ある武道書には、二人以上の敵に対する心得として、立ち樹の間へ駆け込むとか、細道を利用するとか、まず地の利を占めて、正面から二人三人が一時に斬りかかって来られないように、即座に進退しなければならぬという事が説いてある。
どんな達人でも、前後左右四方八方に敵を受けては、思うように戦えるものではない。ことに背後に廻られることは最も禁物である。有名な伊賀越の要撃で荒木又右衛門ほどの剣豪でも、背後からなぐりかかってきた敵の仲間(ちゅうげん・武家の奉公人、足軽と小者の間の位)の木刀を、ほとんど無意識に受け留めたのが、運悪く刀の平身であったため、あの分厚な金道(かねみち・刀匠金道の作刀)が、鍔元五寸ばかりの所から折れてしまった。もし仲間が木刀でなく、いや、仲間でなく、多少剣術の心得のある者であったら、又右衛門といえども、おそらく背中へ一刀を浴びたにちがいない。
しかし剣道として、多人数相手の戦いに、方法がないというのではなく、前にも述べたある武道書のこともそれだし、また実際に多数の敵を引き受けて、立派に勝ちを制した実例も多々ある。宮本武蔵が洛外で吉岡の一味三十余人を相手に戦ったのなど、その代表的なものである。けれどその場合の進退駆け引きは、決して一時に三方四方に敵を受けないように身を動かすので、結局は一人か二人を順々に相手にしたことになっている。それでなければ多人数と斬り合いの出来る道理はなく、また刀にしても五、六人かせいぜい七、八人も斬れば、もう刃が切れ止んで、あとは丸刃でなぐるようなものであるとは、これも諸種の文献に徴して、略々断定の出来ることである。
『明良洪範』に出ている、黒田家の家士林田左門という者が、足軽六人を斬った話は、非常に興味が深い。
左門は戸田流の使い手で、藩中屈指といわれていた。足軽二十人を預かっていたのだから、今日でいえば小隊長どころであった。足軽は合戦の際は第一線に立つ者で、戦国から徳川の初期にかけてはもっとも重んぜられ、またそれだけに実戦に巧妙で、腕に働きのある者ばかりであった。身分が低かったため、泰平になると足軽小軽と賤しめられてしまった。
ある時左門配下の足軽六人が、何かのいきさつから人を殺して出奔した。ちょうど左門は馬場で馬を馴らしていたが、そこへ急報があったので、そのまま馬を飛ばして跡を追った。
半里ばかりの所で追いつくと、足軽どもは覚悟して踏みとまった。 ここでいきなり戦っては、いかに戸田流の達人林田左門でも、相手は実戦の経験をもつ足軽が六人である、勝てる見込みがないので、左門はまず静かに馬からおりて、
『一同騒いではならぬぞ』といつもの組頭らしい態度で言った。
と、足軽の一人が進み出て、
『我々はこれより他国へ駆け落ちいたす所存で御座ります。御身様にここで追いつかれましたことは、この後いかなることがあろうと、口外いたしませぬゆえ、御身様にも追いつかなんだことにして、この場をお見逃し願いとう御座ります。でないと、我々やむを得ず、組頭へお敵対申さねばならぬことに相成ります』口先ばかりでなく、六人ともいざと言えば、すぐに斬ってかかる気構えが、十分面にあらわれておる。
『いや、拙者が追っかけ参ったのは、その方達を捕らえて、必ず罪にしようと極めて来た次第ではない。一応ことの仔細を聞き取りたいためじゃ。組頭として決して悪しゅうは取り計らわぬ。拙者と同道、立ち戻ってはくれまいか』
六人は互いに顔を見合わしたが、中の一人が不意に左門に斬りかかった。
『エイッ』抜く手も見せず、左門は相手を斬り倒して、
『一同、決して騒ぐでないぞ、この者は敵対した故、やむを得ず斬ったが、敵対せぬ者を斬る気など、もとよりあるはずがない。とにかく、拙者と同道せよ、不為になるようには致さぬ』
と、また左右から二人斬りかかった。
『えい、愚か者…』と一人を、返す刀で、
『これほど諭すに…』と他の一人を水もたまらず斬り捨てた。
もはやこれまでと、残る三人一度に抜きつれて来るのを、左門はパッと右へ三尺(約九十センチ)ばかり飛んで、右の端の一人を斬り捨てた。ほかの二人が左右に開こうとするのを、なおも右へ廻って、一人に一刀を浴びせ、ツと最後の一人に向かって突き進んだ。二合とはせずに、これにも深手を負わせた。六人を、四人は斬り捨て、二人には負傷させて、この二人を自分の馬に乗せて連れ帰った。
初め左門が静かに声を掛けたのは、人を殺して逐電しつつある彼らであるから、いづれ半ばは捨て鉢になっているものと思い、まず彼らの殺気をゆるめるためであった。敵対した一人を斬ったうえでも、なお、手向かいさえせねば斬る気は無しといって、相手を激発させぬように努めた。いわゆる言葉戦術を交えながら、巧みに相手に一致の行動をとらせまいとした。
最後に三人が捨て身になって、一度に抜きつれて来たとき、燕のように右へ身を躍らしたのは、横列になった三人に対し、それを縦列に取る位置に自身が立つためであった。一人と三人では、どうしても、そうするよりほかに有利な位置はない。三人のうち一人を斬って、なおも右へ廻り込んだのも同じ理からきている。そして最後の一人になると、ズイと正面に向かっていった。兵法者として、二人の敵に対する処置は、これ以上有利有効な方法も処置もない。書き記してみるとただこれだけのことであるが、いざ実際となると、不断道場の竹刀打ちの達者な者には、誰でも出来るかというと、そうではない。第一には沈着、宮本武蔵のいわゆる『常の心』を失わぬこと、第二には勇気胆力、第三には手練、この三つの条件を具備した者でないと、戦略だけでは実行に現れるものではない。武道家のいわゆる精神鍛錬はそこである。竹刀打ちだけいかに巧妙でも、実際の役に立たぬ、平素の竹刀打ちをいざという時役立たせるものは、鍛錬を経た精神である。昔の有名な武道家が言い合わせたように禅の修養をしたのは、この精神鍛錬のために、禅が最も効果が多かったからである。
兵法臨機
機に臨み変に応じて、自由自在に変化するのが兵法の本義である。千葉周作が剣名を成してからは、一度も試合に負けたことがないといわれているのは、必ずしも彼の剣技が、当時天下第一であった為ではなく、その刀法が変化に富んでいて、いつも試合を有利に導いたからである。つまり臨機の兵法である。このことは彼の遺著『剣法秘訣』を読むとよく分かる。臨機の兵法はむろん千葉の独創ではなく、およそ兵法に名を得た者は、皆これを目指して修行を積み、体得したのである。
臨機の兵法については柳生但馬守に面白い話がある。『明良洪範』によると、将軍家光がある時品川の御殿へお成りになって庭上で剣術の試合をご覧になった。幾番かの試合があった後、将軍は御馬方の諏訪部文九郎を召して、『そちも試合せよ』と命じた。
『畏まりました』とお請けはしたけれど、文九郎は馬術が家の芸であって、馬上ならば試合に自信もあるがと思って、
『恐れ入り奉りまするが、馬上の試合をお許し願い上げたく存じまする』と言上した。
『なるほど、そちは馬上の働きが得意であったのう』
『御意に御座ります』
『許す、馬上で試みよ』
文九郎は勇躍した。やがて馬上の試合が始まったが、なるほど、馬術の達人ほどあって、乗りちがいざま名乗りかけて相手を打つ働きの巧妙さ、たちまちにして五、六人の相手が打ち破られてしまった。
『ほう、文九郎、さてさて天晴れじゃ、したが、誰か文九郎に勝つ者がありそうなものじゃ。おお、それよ、但馬がよい、但馬を呼べ』柳生但馬守が御前へ召された。
否むべき訳もないので、但馬はお請けをして退いたが、これは少々やっかいだと思った。武芸者であるから、むろん馬術の心得も一通りはあるが、しかし文九郎が馬を我が脚のごとく、思うままに乗りこなすことに比べては、但馬の馬術は恥ずかしいほど未熟であった。陪観の人達も、
『いかに但馬守でも、馬上となると思うようには使えまい、これには文九郎に功名をしてやられるかな』と思った。
やがて型のごとく南方から馬を乗り進めて、その間が二間(約三・六メートル)ばかりに迫った。将軍はじめ陪観の者は息を呑んだ。
と、文九郎の馬が、不意に竿立ちになった。
『あッ!』人々が思わず声を発した時、但馬守の木剣がしたたかに文九郎の肩口を打った。
『ウム、さすがは但馬じゃ、よくした!』将軍は我を忘れたように白扇で膝を叩きながら声を発した。武芸好きな家光には、初太刀で但馬が文九郎の馬の頭を打ち、竿立ちになって、文九郎があわてて馬を鎮めようとする隙へ、二の太刀を打ち込んだ臨機の兵法が、ハッキリと分かったからである。
将を射んとする者は先ず馬を射よというような平凡な戦術からでなく、但馬守はその時の情勢に応じて、馬の頭に一撃を加え、自分の攻勢を有利に導いて、二の太刀を鋭く打ち込んだので、但馬守にあっては、これは予定の策戦ではなく、兵家としての臨機の兵法だったのである。
神谷傳心齋の二刀破り (伝は名前のみ傳を使用)
直心流の始祖 神谷傳心齋は新陰流正統五世で、六十七歳の高齢に達して活眼を開き、一流を創出したほどの人物である。若年の頃から、兵法には異常な天才を発揮していた。世間ではあまり騒がれなかったが、柳生但馬守にも匹敵する程の達人だったと言われている。
幼名 幸之助 後 丈左衛門と名乗り、老年に及んで傳心齋と号した。松平周防守(すわのかみ)の小小姓から水野出羽守に仕えたのである。修行するに従って兵法の天才いよいよ発揮して、二十四、五歳の頃、すでに十五流にわたって修業を積み、印可を受けたもの半数に達したという。彼はさらに小笠原源信齋(げんしんさい)について、腕を磨き錬磨を重ねた。源信齋は上泉伊勢守三伝の真新陰流の始祖であった。
その頃、宮本武蔵の名が一世に喧(かまびす)しかった、兵法の神人が現れたごとく、天下の剣士が眼をみはり、耳をそばだてた。武蔵が名声を博したのは彼の創始した二刀流すなわち二天一流が、これまで簇出した(むらがり出た)色々な新流とは全然目先が違っていたことによる。確かに天下の兵法者にとって、それは一大驚異であったに相違ない。いずれの道場でも、よると、触ると武蔵の噂で持ちきりだった。そしてまた、ひそかに二刀について研究する者も少なくなかった。
丈左衛門もその一人であった。果たして二刀が一刀に勝るかどうかを、彼は人一倍熱心に研究した。無論未だ武蔵の二刀に接したことのない彼であるから、ただこうもあろうか、ああもあろうかと工夫し、研究し、またそれに対する一刀の攻防についても苦心研究した。そして何か得るところがあったと見えて、ある日師の源信齋の前へ出て、
『武蔵とて鬼神ではありませぬから、打ち込めぬことはないと思います』といった。
修行半ばの門生の口から、このような高言が吐かれたので、謹厳な源信齋はムッとなって、
『控えよ、丈左衛門、そち如き腕前にて、武蔵の兵法を云々するとはおこがましい。武蔵の新流に対しては、この源信齋も少なからず感服致し居る者だ、いかに血気とはいえ左様な言は以後きっとつつまっしゃい』
『お言葉ではございますが、私とていささか思案工夫を致してかく申しますので、決して慢心や血気から申すのでは御座いませぬ』
『ほう、思案工夫を致したとな、武蔵の二天一流に対して、どのような攻防の工夫を致したか、よろしいそれならば、私が二刀を取って、武蔵に代わってそちと立ち会って見ようではないか』
『先生が二刀を取ってお立ち会いくださるとは、この上もないことでござります』
二人は立った。源信齋は大小二本の木剣を円極(下段に組み合わす)に構えた。これに対して丈左衛門は木剣を上段に振りかぶった。師に対して上段の構えを取ること既に僭越である。
無言の気合い、双方しばらく呼吸を呑んだ。と、不理と思ったのか、あるいは変化か、丈左衛門が上段から下段に、颯っと構えを直そうとした時、早くも源信齋はツツツツと踏み込んで、組み合わした二刀で、丈左衛門の刀を挟み押さえてしまおうとした。挟まれたらもうそれまでである。
と、丈左衛門は電光石火、迫ってくる二刀を重ねたままで跳ね返した。源信齋これはと思って、飛びさろうとした変化の頭を、丈左衛門は飛び込みざま、ポンと源信齋の額を打った。
『参った』
『ご無礼つかまつりました』
『いや、誠に驚き入った腕前だ、いつのまに左様な工夫を積んだか、これならばあるいは武蔵に対しても打ち込めるかも知れぬ。いやよく工夫致した、天晴れじゃ』額の痛みも忘れて、源信齋は我が事のように喜んだ。こうした場合、相当心の練れている者でも気を悪くするのが常であるが、源信齋はよほど人物が出来ていたらしい。丈左衛門がその工夫をもって、果たして武蔵と立ち会ったかどうか、それは記録の徴するものがない。
抜かせて勝つ
作州森家の臣浅田九郎兵衛は、宝山流の達人であった。宝山流は堤山城守宝山が称えた流名であるが、その源は遠く僧 遠山念阿弥慈音に発している。慈音は、中條流にも、念流にも出てくる怪僧で、その真偽はつまびらかでない。この流で名を得た者に、柏木清三郎、浅田九郎兵衛、和田定之進、田中一超などがあるが、中でも九郎兵衛が最も妙手として知られている。九郎兵衛は幼名を権之丞といい、十七歳の時、讃州高松金光院に寄宿していた。近在に宮本武蔵門人と称する沢泥入という者がいて、剣名を馳せていた。九郎兵衛はこれと試合って打ち破ったため、急に名高くなった。森家へ仕えて禄二百石を得たのはそれから後のことである。
ある時、北国浪人三間与一左衛門なる者が作州へ来て、しきりに居合術をひろめ、多くの剣客と試合して打ち勝ち、門に入る者も次第に多くなって、その勢力はすばらしいものがあった。
三間は十六歳の時から、十二社権現の神木を相手に、剣技を錬磨すること二十年に及び、ついに神木を枯らしてしまったという。神木が枯れた時には、彼は自ら水鴎流と称える新流を創始していた。爾来諸国に広めるため遍歴して、この作州津山の城下へ来たのであった。
三間の名声日に高く、さながら森家には一人の剣士なき有様に見えたので、我こそはと試合を申し込む者もあったが、いずれも三間の早業に手も足も出なかった。負けて帰った連中は、これはどうしても浅田九郎兵衛に出てもらわなくてはならぬと言い出した。北国浪人なぞが流れ込んできて、城下を荒らされては、森家の恥辱であるとくやしがった。
九郎兵衛も辞退するによしなく、ついに三間与一左衛門と試合をすることになった。三間としては、もちろん九郎兵衛を打ち破れば、もはや作州に敵はないことになるので、勇躍して試合を快諾した。
これを聞いて心配したのは門人達である。もし九郎兵衛が負けると、それは一人の名折れでなく、森家全体の名にかかわる。相手は名に負う居合術の妙手、この試合はどうもおぼつかないと思った。そこで、門人達は打ち連れて師家を訪れ、試合を中止するように勧めた。けれど一旦約束したことを武士として断れるものではない。
『しかし先生、三間は当国ばかりでなく、諸国の武芸者と立ち合って、いまだ一度も敗れをとったことがないと聞き及びます。立ち上がるやいなや、まばたきする間も与えず打ち込むので、大抵な武芸者は、術の施しようがないとの事でございます』
『それはわしもかねて聞き及んでいる』
『まことに容易ならぬ大敵でござりまするぞ』
『いかにも大敵だ、だがわしにもまた思案はある』
『と申しますと―』
『されば、居合術は兵法の一技であって、全体ではない。剣を取っての勝負は、間一髪の間に決するものではあるが、最初にその勝ち所を狙い打ちするのが居合で、不意の斬り合い、抜き討ちなどには功を奏するけれど、一旦抜いて構えたとなると 居合妙所はもはや働きを失ってしまう、わしの思案工夫はそこにある。つまり相手に抜かせることじゃ。立ち合いの最初に相手の勝ち所を外してしまえば、もはや勝ちは此方のものだ』
『しかし三間のはそれがすこぶるの早業で、彼が腰の木剣を抜いたときには、もう勝敗が決しているということです』
『はゝゝゝ、そのもと等は、ひどくまた三間を恐れたものだな。間合を遠くして立ち合えば、少しも恐れることはない』
『なるほど、抜かせて勝つ……これは確かに新工夫でございます』
門人達は安心して、急に元気づいてきた。師の勝利疑いなしと思ったからである。この話を洩れ聞いた三間与一左衛門は ほッと深い嘆息を洩らした。
『さてさて浅田九郎兵衛は聞きしに勝る達人だ!』
そういって三間は立合を遠慮してしまった。九郎兵衛の言のごとく、居合の妙所は刀を抜く刹那にあるので、これを抜かせてしまうだけの非凡さが相手にあれば、到底平兵法に及ぶものではないからである。居合の達人に対して、その妙所を殺して勝ちを制しようと工夫した九郎兵衛は、さすがに剣士としてすぐれた智の働きを持っていた。
三厳と又右衛門
ご存知の通り柳生十兵衛三厳は隠居して後、大和柳生の庄柾木坂に道場を構え、多数の門弟を入れて始終剣道を教えておったが、その中でもかの有名なる荒木又右衛門吉村――その当時は荒木丑之助と称えておった――が気に入りの門弟で剣道稽古の暇にはこの丑之助を供につれて、散策せられるのが常であった。
秋も冬に近いある日のこと 例のごとく十兵衛公は、丑之助を連れてある松並木のところまで来ると、ここでしばらく休もうと松の根方に丑之助と相対して腰を下ろし、荒木のすすめる燧火(まっち)の火で煙草に火を移し 四方の景色を眺めながら、武芸についてかれこれと物語っておられた。この日は風もないうららかな秋日和であった、すると傍らに見上げるような高い老松の梢から 年を経た松毬(まつぼっくり)が落ちてきた。両人とも剣道の達人、なんで油断のあろうはずはない。武士は轡(くつわ・馬の口にかませる金具)の音で眼を覚まし、また霜降る音さえ聞くという、松毬の落ちてくるのを覚った主従、十兵衛公はいささか体を後ろへ傾けてこれを避けられたが 丑之助は手に持つ鉄扇をもってハッシとばかり松毬を払い除けた。剣道達人として当然のことではあるが、荒木は師の前でこのとっさの場合に見事松毬を打ち払った事を内心非常に得意に思い、今に先生からお褒めの言葉をいただくかと待ち設けておったが、十兵衛公においてはかえって不機嫌な顔色をしておられる。荒木は不思議に思い、なんでこんな不機嫌な顔をしておられるかと不審に思っていると、十兵衛公大喝一声、
『荒木、そのほうは不都合な処置をする』
と叱られたので、この意外な叱責に荒木は、なんで斯様に先生が怒られるかがさっぱり分からない、ハッと手を付いて、
『恐れ入りました』
と頭を下げた。十兵衛公は重ねて、
『恐れ入ったとあるが、実際そのほう何故不都合であるか悟っての言葉か』
『いいえ、実はいかなる意か 相分かりません』
『そうであろう、それでは言い聞かせるが、そのほうは見込みある門弟として永年今日まで指導致したが、左様なことでは今後柳生流を修行しても何の甲斐もない、いま松毬の落ちてきた時、そちは松毬を見事に払い除けた。その働きを大そう得意に思うているようであるが、もしあの時に十兵衛がかねてよりその方をつけ狙うている敵であったら何とする。あの刹那にその方を斬ろうと思えば、たちどころに一刀両断するは たやすいことである、どうだ荒木、それとも私が斬り付けてもあの際それを防ぐだけの用意があったか どうじゃ』
といわれたので、荒木はなるほど左様であったかと感じて、
『ハハッ恐れ入りました』
『これこそかねて教えた通り、当流の極意中にもある心の病である。もしこの病が抜けなければ到底立派な達人にはなれない。病というのは ものにとらわれることであって、ものにとらわれて自分の心がある一方にのみ注ぐということが心の病である、剣道においては最も忌むところである。今後とても病を抜くということについてよくよく心掛けねばならぬのじゃ、どうじゃ わかったかの』
というので一言もなかった。荒木はあの際うっかり松毬に気をとられていたのは事実で いわば油断をしておったのである。
十兵衛公は言葉をついで、
『なお今ひとつ その方は大変な心得違いを致して居る。松毬が落ちてきた時、この私はどういう風にしたか、わずかに体を後ろへ避けたればこそ頭にも当たらずに済んだではないか、それをその方鉄扇をもって打ち払う、もし松毬が生きているものであったならば何とする、たちまちその方の鉄扇によって一命を落とすではないか、また松毬は何ら我々に当たるために落ちてきたものではない、年を経たため、枝に止まらず偶然に落ちてきたのであってみれば誠に気の毒のような感じがする、それ故わしは体をかわして、松毬を地面に落とさず軽く受けとめてやりたかったのじゃ、これがいわゆる活人剣(かつにんけん、かつじんけんとも)の真意である。刀は人を殺すものではない、人を打つ鉄扇ではない、鉄扇も刀も共に人を活かす為に用いねばならぬ。それが柳生流の極意として最も尊ばねばならぬところじゃ、さるを松毬とはいえ無意味に打ち、打擲(ちょうちゃく・たたく)するということは、甚だ謹みのない、平素の教訓に悖る(もとる・反する)所行ではないか、どこ迄も刀は活人剣でなければならぬ。使いようによっては殺人刀(せつにんとう)にもなる、それは自分の心掛け一つである。活人剣によって人を活かし己を活かす。大にしては天下国家を安んずるというのも道に二つはない。故に柳生流では剣術とか武道とかいう名称を用いずして、兵法と称えるのであって、相互いに向かい合っての斬り合いもいわば小さな勝負であって、その時に己の心をもって己の手足を使うのは、あたかも大将が百万の軍勢を手足のごとく使うと同じ意味で何ら変わるところはない。それはかねて教訓してあるとおり、どこ迄も我から敵に斬りかけるということは慎んで 敵に斬らせて先を持たせ、而して後に策をめぐらす即ち後の先ということはかねてから稽古しておるのであるから、その点もこの際よく合点しておかなくてはいけない』
というので、懇々と柳生の極意の一部を実際について、十兵衛公が諭されたのである。刀をもって敵を斬るということは真の剣士の執るべき心得ではないのである。
*追記 日本剣豪史では荒木又右衛門について
『〜父から中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだようである。俗説では柳生十兵衛三厳から新陰流を学んだようにも伝えられているが、又右衛門は十兵衛より九年早く生まれている。十兵衛が寛永三年から寛永十五年再出仕するまでの十二年間、大和、柳生の道場を中心に兵法の研究に打ち込んでいた時代に、又右衛門が、剣名の高かった十兵衛の指導を仰いだことはありうる。しかし何ひとつそれを裏付ける史料はない。』と記述されています。
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