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一刀流聞書

一刀流聞書(ききがき)は藩士高野佐三郎氏の祖父高野苗正(みつまさ)氏が、一刀流の名家中西忠兵衛子正(たねまさ)の門に入り剣道修行中、師より聞きたる所を記しおけるものの中より抄録してここに掲ぐ。(高野佐三郎著『剣道』より)

※記 読みやすくするため、候→候う、申→申し、由→由し、無之→之れ無き、有之→之れ有り、居致→致し居りの書き換えをしています。また擬態語を片仮名に書き換えた部位があります。

 

一、太刀筋を素直に 体手足に凝りの無きように修行いたすべし。試合にて体と手をほぐし、木刀にて太刀筋、気分の所、間合を修行いたし、その上にて刃引(はびき)にて真剣の場を修行いたすなり。体をゆたかにいたし、気分を凛と持たねば刃引の取り扱い自由に相成らず候う 刃引は真剣の隣にて候う間 よくよく修行有るべきものなり。

一、平日(普段)の稽古に間合をよく気を付け修行すべし。一人にても間合はあり、太刀の長短にもよるべけれど間合はあるものなり。間合といえば分かりかね候えども、間合はすなわち我が構えなり。その内へ入れば切るとも突くとも為し得るなり。一本勝負に手間をとるは、勝負を大事に思い、間合を正しく取り、容易に打たれ候う間には入らず候う故なり。

一、二尺三寸五分(約七十センチ)の定寸の竹刀用い候えば、竹刀にては短く覚え(感じ)候う。定寸の木刀を持ち候えば竹刀より長く覚え(感じ)候う。また定寸の刃引を持ち候えば木刀より長く覚え(感じ)候う。それにて真剣の間合を修行いたすことに御座候う。

一、上手(じょうず)を打ち候う時は、敵へ当たらぬよう当たるように打太刀をいたし、下手(へた)を打つには敵へ当たるよう当たらぬよう打太刀をいたすことに御座候う。

一、敵右を踏み込み切れば、左を外して右より切れば敵に当たり切るるなり。

一、打ちの強き者には先へ出候う方よろし。

一、切先をきかせ候えば自分の修行に相成り候う。しかし相手の者は嫌い申し候う。

一、浅く手の打ちを切ってくる太刀は引きあますなり。引きあますというは浅き故なり。

一、深く切ってくる太刀は切り落とすなり。引きあましても体に当たる故切り落とすなり。

一、試合に当たり太刀の置き所、心の置き所善く候いても、敵に打たれ候うは敵の打ち出す時 手前の太刀きき過ぎ脇へ外れ候う故 その外れたる跡を打たるるなり、心得べし。

一、敵と向かい合い責め居り候う内、気を短く隙見え候えば 打て取り候うところ悪しき由し申され候う。辛抱いたし責め居り候う内、敵より打ちを出させ候うよう致すべし、この方より打ち出し候えばこの方より隙を出し候うよう相成り候う。

一、相手の者ダラリダラリと遣い候えば、この方心はだらけず遣い、うわべはダラリダラリと遣い候えば、相手は弱り申し候う。長く遣い候う内 段々と心を締め 凛といたし、相手に応じ遣いながら切先鋭く遣い申すべし。

一、敵を睨み殺すように之れ無き候いては相成らず候う。睨み殺すとて目に力を入るるにてはなく、腹にウンというもの之れ無き候いては相成らず候う。腹の実してウンと敵へ通じ候うところ肝要なり。ドッコイというはこの方へ受け ただ踏みこたえ候うばかりにて受身になり悪しく候う由し。

一、試合の時ハッハッと声を懸け候うは、 打てる所あり、突ける所あり、そこだそこだと云うなり。敵を引き出し候う為 声懸け候う事にてはなく、打てる所、突ける所そこだそこだと思う所に声懸け候うはよろしき由し、ただ声懸け候うは敵を下げすみ悪しく候う由し。

一、試合致し候う内 向うより体の当たりきし候う時は、この方は腰に力を入れ、体を軽く致し、浮木流木のごとく、右へなり左へなり ふわりふわりとなやし申すべし。敵大兵なりとも、力強くとも、少しも恐れず、我れが彼より勝り候うと思い 敵を押し倒すも手玉に取るも心のままと十分に気分を大きく持ち、敵を自由に致す心持ちならでは相成らず候う由し。

一、多くの人は刀をもって切るものと申すばかりを知りて、いかにして勝つべきかを知らず。ただ敵を切ることばかり屈託(執着)致し候う。敵の太刀を張り込むとか、押さゆるか、または巻き込むかをして勝つ事を知らず、ただ切るものとのみ思うては危うきことなり。その所をよく修行してのち 勝つ所に至るなり。
  敵を唯打つと思ふな身を守れ
    おのつからもる賤か家の月

一、修行には打ちを大きく打ち、留めるを小さく留めよ、と申すことあり。左なく候えば真剣の時は心の落ち着きなく、おのずと打ちは小さくなり、留める所は大きくなるものの由し。

一、試合の節 あまり切先を利かせ遣い候えば、相手の者叶わぬながらもうるさき事と不快に思い候う。気分にて相手を押さえ、許して相手に成り候えば、とても叶わぬと帰服いたし候う由し。

一、呼吸は試合にて知れ申し候う。下段にてウンと攻め候う時、敵突かれ候うと思う時突かずにいて、はて突きそうなものをと疑い踟躊(ちちゅう・逡巡)する時突き候えば、当たるものなり。やはり呼吸の所なり。

一、子正(たねまさ)先生いう。小児の寝入り居り候うところへ行き、その呼吸この方の呼吸と考え居り、こちらにてウンといえば その小児ワッというようになければ呼吸の所は成り申さず候う由し。

一、修行には 遣い悪き者にはこの方より「遣い申すべし」と先(相手)に声を懸け遣い申すべく候う。先より声かけられ、「今日は遣い申さず」重ねて「遣い申すべし」などと申し候いては、先は勢付きこの方は気負けに相成り申し候う。

一、修行には気の引け候うを嫌い申し候う。様子も相分からず 遣いぶりも相知れずとも、一先に目掛け相遣い申すべく候う。

一、二の目附というは、試合にては上段なれば上段に取り 揺すり居るところ。晴眼なれば切先を上げ下げ 揺すり居り候うところ、切先を上げれば打ち 下げれば突くと敵に知られぬよう上げ下げ揺すり居るなり。その内実の入り候う太刀を気を付くべし。おのずから知らるるなり。

一、仮名字(一刀流目録)に 及ばざる上段を好まずして とあるは、業できずとも気位ばかり出来てくる故 気位ではいかぬと申す事なり。

一、遣太刀 打太刀の一体を視、強き所弱き所を視て 弱き所へ附くべし。

一、敵は即飯糊のほう、この方は糊の無きほう、自然と敵の即飯糊より懸かり候う時、この方その即飯に合わせ候えばしっくりと相成り候えども、この方は即(つ)いて即かざる所あり。心得べし。

一、遣い方、「草」はそれは如何、それでは悪きぞと押さえて勝つ。「行」は直にそれは悪きぞととがめて勝つ。「真」は直に殺す所なり。

一、年寄り候えば、張り合いて(競って)打ちを大きく出し候えば、体も手元も崩れ 見悪しく候う間、打たれても構わず、ちゃんとして遣うべし。かくせねば傍から見て位が下がり申し候う。

一、年寄り候う人が切先を遣い候いても、気分の引っ張りの無き者には、業を懸け突きかけ あるいは面を打ち、あるいは左右の小手等を切り遣うべし、敵によりて即ち変化するところなり。

一、 年を取り候いては、余り勝負を争わず、ただ摺り込み 張り込み 打ち込みの所、ここは出来、こここは出来ずと心得て遣うのみ、過不及は有る事なり。

一、我れ六十二歳の時試合致し候う節、どうか致すと若き者に突き転ばされ候う間、あぶないから用心を致せとある人云う。その人を見るに突き転ばされはせねど、つまらぬ所にて打たれ突かれ居り候う。太刀の勝負を知らず笑止千万。

一、初心の者を引き立て候うには、足の踏みよう等に構わず、太刀の附け所、切落し等を教え、スラリスラリと遣わせ候うように致すべし。足の踏みよう、または体等を直し候えば、それに気を取られ手の方スラリとなり申さず、胸に凝り申し候う由し。スラリスラリと遣わせ候えば 自ずから足の踏みよう等直り、体もスラリと出来申し候う。

一、目っかち(片目)猿が目明き猿を笑うという事あり。両眼揃い候うを目っかち師匠が我が(自分のような)目っかちに弟子を致すなり。

一、心持ち直り候えば体も直るなり。体が直れば太刀も直るなり。

一、切先の上がり候う者は、足の踏みようを直し候えば 自ずと切先下がり申し候う。

一、肩に凝り候う者は、足の踏みようを直し候えば 自ずと肩の凝り直り申し候う。

一、物見(様子伺い)に屈託(執着)致し居り者は、切先を直し候えば物見自ずと直り申し候う。

一、屈託致し居り候う者は、屈託の所そのまま置き、その本を直し候うよう致すべし。

一、扇もその要が大切なり、過ぎても不足にてもならず。それを外さぬところ即ち要なり。

一、上手(じょうず)を下手(へた)にして遣え、下手を上手にして遣えと申すは、敵上手ならばしたたか打てやれ、下手ならば打たれて遣えと申すことなり。

一、剣術修行は、初めはほぐし、中たびは苦しめ、末に胆を練ることを教えるなり。

一、初心の者には初めの下段なら下段、晴眼なら晴眼、その初めの所と、仕舞(終い)の下段なら下段、上段なら上段、その仕舞の所と、初め終わりの所をしっかりと遣わせ候うよう致すべし。

一、中の肝腎の勝ちの所はまず捨て置きて、初心には初めと仕舞をしっかりと遣わせ申すべし。初めより勝ちの所ばかり教え候えば変なものに成り申し候う。

一、例えば箱 煙草 盆 こしらえ候いても、素人拵え候うは 能く器用にでき候いても やはり素人拵えと黒人(くろうと)は申し候う。

一、剣術も当世流行の剣術は、素人の器用なる者の拵え候うようにて、法の正しききまり所の無き故、真剣の役に立ち申さず候う。

一、打太刀は敵を刃にて切れる所を切るが打ちと申すところなり。当時(当今)は心得違いにて切る真似をする故、役に立ち申さず、修行でき申さず候う。

一、笛も最初稽古には静かな所を教え、段々に早き所を教え候う。静かなゆったりと致し候うところはかえって間がむずかしきものにて候う。剣術も初めはゆったりと組を遣わせ候う。恐れず滞らず、遣い候えば、真剣の節は間に髪をいれず、誰も鋭く相成り候う。

一、人を相直し候うにも、遣いぶりを見てその心持ち、あるいは体の様子、太刀の出し方、手心、手の内等を見て直し申すべき事、師たるもの心得あるべきなり。

一、人は器用不器用これあり候えども、ゴツゴツ致す遣い方にてもそれにて勝ちを取り候うところも之れ有り候う。ただ稽古には見分悪しく、また教え候う者面倒に之れ有り候えども、真剣の勝ち所をよく教え込み候えばまずよろし。

一、最初取り立て候う者悪しく候えば、ゴツゴツにもなり癖もでき申し候う。

一、かねて起請文の通り、竹刀打の儀 この方より許し無くして為すべからざる事に候う。この度御面々に竹刀打許し候う事は、御好み方も之れ有り趣き聞き及び、且つは組合勝負の為にも相成るべくと存じ許し候えども、竹刀打なされ候う方を見るに、誠に素人の切り合いを真似られ候うように拙者は存じ候う。習う心もなく面々我意をもってなされ候うよう存じられ候う。

一、当家へ隠し他所にて私(わたくし)の竹刀打を致し候う事、起請文に之れ有り 決してあるまじき儀は勿論に候う。しかし御心得違いの仁も之れ有り候いては如何に候う。愈々(いよいよ)お慎みなさるべく候う。

一、真剣の勝負に当たりては我が身を殺されに行くと思うべし。さすれば鋭く丈夫なものに相成り候う。真剣には我が身を殺されに行くと思わねば勝つこと出来申さず候う。ここの所意味深し。

一、真剣の場に至れば生死二つの場を知らねば用に立ち申さず候う。たとえば陽尽くれば必ず陰に落つ。陰尽くれば必ず陽になる。生が尽きれば必ず死に至る。死が尽くれば必ず生となる。
 歌に
    山川の瀬々に流るゝ栃からも
       身を捨てゝこそ浮む瀬もあれ

一、切先の合い申さざる所にては切れ申さず候う。双方切先五寸合い候うところは、即ち勝負のつき候うところに候う。

一、士(さむらい)の腹を据え切るなら切れと申す時は、真向きに詰め寄り申し候う。下郎の者切るなら切れと申し詰め寄り候う時は、ぜひ半身になり申し候う。もっとも下郎に限らず士にても腹の抜け候う者は同じ事なり。

一、上の上に気分高上になり候いても相成らず、下の下に相成り候えば賎しくして実を取り失い申し候う。ただ中の中と中墨(なかすみ)を外さぬところ肝要なり。中墨と申すは、負けぬようにし 過不及も無く、今日の修行致し居り候えば 真剣の時 負けさえせねば その場に伝刀の真剣独妙剣の業も出来申し候う。中墨取り失い候えば伝刀も立ち申さず候う。

一、真の本勝ちは 我が本心の所にて、我が心は日輪のごとくにして、傍よりどのような事有りとても本心は凛として少しも動かず、勝ちを握り居り候うところなり。釈迦仏仰せられ候う通り、天上天唯我独尊と心の尊きを仰せられ候う所なり。
  右の通り先生に伺い候うところ、その通りの趣意の旨 申し聞けられ候う。右故 弟子には千金莫伝(秘伝の修法)と之れ有り候う。いうに云われざる所なり。

一、修行するは、京都に用事がありて品川より踏み出し、段々歩みて箱根を越え、大井川を渡り、難所を経てようやく上方へ至るなり。ここより直ちに上方へ至ればよさそうなれども、[それでは]途中の咄(はなし)出で候いても、艱難苦労して道中を致し候う咄 出来申さず候う。
 修行も試合をいたし 五十本の組を遣い、艱難苦労して上手の場に至り候わねば役に立ち申さず候う。その上にて、試合つまらぬ、組つまらぬ物となり候わねばなり申さず候う由し。

一、能の面に、歓ぶ時の面、悲しき時の面とて二つは無し。歓ぶ時も悲しき時も一つ面にて狂言を致すなり。上手は悲しき時は見物を泣かせ候う。即ち心なり 以心伝心の所なり。

一、敵の気と我の気と同じように有る所を知らねば 勝つこと相成らず候う由し。

一、ふくろ(梟)剣術と申すこと之れ有り候う。これは夜の暗きは見え、昼の明るきは見えず、明らかなる能き所は知らざるなり。

一、伝授伝書の趣をもって段々工夫修行罷り在り、近頃試合の所も中墨を取り、勝つより負けぬ所を修行致し居り候うところ、至極遣い方この方よろしく、兎かく(あれこれ)なき旨申され候う。しかし切先少々上がり候う由し、もっとも自分にても心付き居り候えども、とかく切先上がり候うは如何と申し候えば、敵へ対し候う間上がり候う。自分の体だけに致し居り候えば上がり候う事 之れ無き由し申され候う。感心いたし相直し候う。

一、小野次郎右衛門殿稽古場書付写
  当家一刀流兵法の儀は、元帥伊藤景久の教を厚く守り、門弟中へ相伝え、かつて自智の及ぶ所にあらず、唯一刀先生の旧伝也。

一、能き木柱を建て候いても、地形(ちぎょう)悪しく候えば曲がりひずみ出で申し候う。下地の地形能く候えば悪しき木柱にても曲がりひずみ出で申さず候う。剣術も器用な業の能き者も下地の地形悪しく候えば役に立ち申さず、不器用なる者にても下地の地形能く候えば真剣の役に立ち申し候う。地形と申すは大事にて候う。

一、胆を練る者は手をおのずと練るなり。手を練る者は胆を練ること出来申さず候う。胆を練る所は即ち生死二つの死の場を練るなり。
   身を捨てゝ又身を救う貝杓子

一、上手は近きを知りて遠きに苦しむ。下手は遠きを知りて近きを知らず、まず箱を指さん(指し物を作らん)と欲せば、鋸(のこぎり)を立て鉋(かんな)を研ぎ、道具を揃えて箱をこしらえる事にかかるものなり。それをせずして箱を拵えんとかかり候えば、鋸切れず、鉋もきれず、箱を指し候いても役に立ち申さず候う。剣術も人に勝たんと思い候わば能く前もって穿鑿(せんさく・深く調べる)致し 後に勝つことを知るべきなり。

一、物にあわてず落ち着き候う所肝要なり。火事などにても それ火事と云いあわて候いては大切な物をも忘れ、物を損じされ候う。剣術もその場に臨み、あわて候うようにては心負け致し候う。あわてず、恐れず、勝つべき所に至りては一足もとどまざるなり。

一、丸くとも一角あれや人ごころ 余り丸きはころび易きそ
  丸かれと思う心の角にこそ 浮世の人かたかりこそすれ

一、太刀生(たちうまれ)の事というは、早く申さば今日試合にて 向かい合い 引き受け居り候う時は太刀締まり申さず待つばかりなり。また打たんと思う時は切先締まるなり、これ懸かる所なり。それを知りて懸かる内に待ち、待つ内に懸かるを懸中待待中懸と申すなり。太刀の上がり下がり締まる所なり。打つ太刀は切先少し上がる。突く太刀は切先下がる。これによりて太刀の生まれを知るなり。右の所知りて遣えば呼吸のところ自然に知るところに至るべし。

一、試合は心は虚にして竹刀は実なり。(心虚にして上部(うわべ)の業の実なるをいう)。何となれば竹刀は直ぐに切るとか突くとかするところあるなり。

一、流儀を尊び教えを守らぬがよしと申す事之れ有り候う。若き時は無理にても何にても業を専らとすべし。それを尽くし候いて四十以上になり候えば位の所を遣うべし。人も道楽を致し 年を取り 締まり候う様なるものにて候う。

一、高柳にある人問う、先生申され候うには強き所弱く勝ち、弱き所は強く勝たねばならぬ由しに候えども、強くお勝ちなされ候うは如何と、答えて曰く、そこのところ未だ分かるまじと。

一、水月の事と申すは、この方が月になり向うへさす事なり。あるいはこの方が水になり向うを月に致して見候えば、向うの差すのが足らぬ所が見え候う。すなわち向うの虚が知れ候うなり。

一、向うの腹に気分を入れて 無刀にて遣い候うように致すべし。そうして太刀を手伝わせて遣い候う事。

一、勝負と申すは誰も教えずといえども子供も心得おり申し候う。当流の教えはまず勝負に拘わらず 草 行の二つを教え、勝負の気を押さえ、腹の落ち着きを教え候う事専一なり。まず太刀を無くして気分ばかりを向うへ通じ候うように致し、而して太刀を手伝わせ候えば勝つ事でき申し候う。

一、石火の位と申すは、石と鎌と打ち合わせ候うところ即ち鋭(するどき)のところなり。太刀と太刀が合い候いて、その鋭のところ 向うへ気分と太刀がうつる所、即ち石火の位なり。

一、袋はきたなくても黄金は捨つる事なかれ。身は賎しくとも法を捨つる事なかれ。

一、露の位、石火の位、梵鐘の位と申すは 刃引をもってずっと立ちて 静かにゆったりと行き、気分十分に満ちしぼりて敵の太刀に当たり切り落とす所が露の位、当たる所が石火の位、当たれば直ちに梵鐘の位にて向うへその響きがドッと行く所なり。

一、露の位と申すは、木の葉に露が溜まりし如く、落ちかかり候いてもめったには落さず、しぼり抜きてほたりと落つる如く ずっと立ち 向かい側まで行く内に気分十分に満ち ほったり落つる如く切り落とすなり。切り落とせば即ち石火の位の所なり。

一、 弓の上手が狐憑きを蟇目(ひきめ・鏑矢、音を立て相手を殺傷しない)で落とし候う節、弓に矢をつがい向かい候えば、狐憑き肩に居るから肩を射よという。見れば膨れ候う間 射んとすれば腰に行く。腰を見れば又ほかへ行き、下手に射れば人を殺す故、弓矢を投じてその僕(しもべ)に射らしめんとすれば(僕は)辞退す。強いて射よというに、さらば射んとて 矢をつがい立ち向かい候えば、たちまち狐落つ。先生の射るは極まり居り候う(狙いを外さないが)、かの僕の射るは極まりなく 狐もどこに来るか知りがたく 恐れて落つるなりという。

一、太刀を持ち少し稽古いたし、切落し勝つとか少しすべを知れば、この方が致しよし、素人は切るすべを知らず、無法に来る故どこへ来るか知れず 致し悪し。

一、遣い方に 真 行 草 之れ有り候えども、全く腕にあるにあらず、心の真行草なり。業熟し候う上にて太刀と体と心と一致の所なり。
例えば梅の花を見るに、絵に描きたるものは匂いなし。土がありてその上に水気を吸い上げ、大木にもなり、花も咲き、実も成るなり。絵に描き候うは真という土台無き故、見て美しきばかりなり。剣術も土より物の生ずる如く地形土台の真が肝腎の所なり。うかと修行してはならず。よくよく味わうべし。

一、自返りと申すは、燈火の明かり この方へ差し邪魔になる故、それを防がんと手を出せば手の隙指の間より洩れ、戸板を立つれば板の間より明かり差し、横向きになれば横よりさして尚邪魔になる。
後ろ向きになれば明かり見えず、これでこそ能しと思うなり。後に明かりの差す事を知らず 好い気になりて居るのを自返りという。

一、右燈火の明かりの差すを防ぐには、心を砕きて組を修行し、功が積みて、敵の気分の起こり、太刀の起こりが知れ、この方より明かりを向うへ差すように出来候えばずっと行き 向うの明かりを消しさえすればそれにて邪魔になる物之れ無き事かと 何も存じ申さず候えども 考え申し候う

一、賽は四角なる物にて、一より六までなり。六は十分の所なり。十分の勝ちは裏が一にて一つの負けあり。五つ勝たんと思えば裏が二にて二つの負けあり。四つ勝たんと思えば裏が三にて三つの負けあり。生死の場なり。

一、箸の堅きをもって豆腐の柔らかきを挟むがごとし。前もって堅きとて箸を堅くして行くにあらず、柔らかきとて柔らかにして行くにあらず、そこに行き 見てそれぞれに応ずるがごとくすべし。剣術も同じ事なり。

一、山ならば山口、川ならば川口というは(一刀流目録の語) 敵突きかけ来ると見ば咽(のど)の所を突き能く明けおき、ほかを能く防ぎ、突き来る時にそれを防ぐべし。最初より突かせまじとすれば 攻むる所を変えさするものなり。突かんと思う所を明け置く所 山口川口の所なり。

一、長沼直心影流は陽中の陽をもって上段に遣う事を教え候う由し。一刀流は陰をもって下段にて遣うことを教え候う。陽中の陽は発しぬれば陰に落つ。流儀の陰中の陰は発すれば陽に相成り働きも出来候う。

一、無念流は陽と陰との中を取り、晴眼の太刀を少しひずみて構え候う由し。

一、打つも切るも力にては之れ無き候う。太鼓を打つにも功が積み冴えにて響きがよく相成り候う。

一、忠太先生いう、子供が井戸の傍にて遊び居り もしその子が井戸に落ちんとするを見れば、誰にてもあっと思わぬもの無し。勝負はそこの所が肝腎と申され候う。面白し面白し、意味深し。

 

一刀流辯
一刀流と云ふは、先一太刀は一と起て十と終り、十と起て一と納る処也。故に万
有物を数ふると雖も右の処なり。習ひつかへて見るに本の一刀と云ふ。
此は一と起て十と切り、其太刀にかまわず気分を元え納むるの処なり。亦敵より
十と起るとき、我一を持つてしとめる也。故に下納まるなり、そうして一刀にき
す。故に一刀流と云ふ。


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