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剣術秘伝独修行 巻之下

秘伝

世の誘に、秘事は睫というごとく、睫は目の傍らにあれども、みずから見る事あたはず。鏡に照らせば見ゆるなり。その鏡を取りて見よというが、秘事なり。跡にては何の難しき事もなけれども、心つかぬ所を気をつけるを秘伝という。これみな、先達の導きによる事なり。されば、仏も十億万土とも説き、また娑婆即寂光土とも説きたまえり。迷う時は十億万土、合点すれば、この娑婆がとりも直さず寂光の都なり。剣術の修行も、秘事を伝うといえども、すこしも疑わずして修行すれば、ついにその道を得る事疑いなし。故に、少しの事を伝授するにも、精進潔斎し、大将を用ゆるにも、壇を築き斧鉞を授かる事は、麁略にすまじきがためなり。今ここに師友なき人のために、剣術修行の仕方をしるす。必ず忽(ゆるがせ)に思うべからず。

 

剣術秘伝独修行 巻之下

秘伝

ことわざに「秘事は睫毛(まつげ)」というように、 睫毛は目のそばにあるのに自分で見ることができないが、鏡に映せば見える。その「鏡を使って見る」ということが秘事である。 出来てしまえば何も難しい事はないが、心付かぬ所に気付かせるものを秘伝という。これはみな先達の導きによるものである。
例えば仏も、仏の世界は非常に遠い十億万土とも説き、また娑婆(現世)が即ち仏の世界とも説いている。迷うときは十億万土、合点すればこの世界が即ち仏の世界なのである。
剣術の修行も秘事を伝えるものだが、少しも疑わず修行すればやがてその道を得ることができる。

その為にも、少しの事を伝授するにも精進潔斎したり、大将の任命に権力の象徴を与えたりすることは大切であるから粗略にすべきではない。
今ここに、師や友のいない人のために剣術修行の仕方を記す。けっしてなおざりに思わぬように。

 

たとえ師にしたがいて学ぶとも、斯様にせばかくあしらい、こうするならば斯様にせよと伝授するとも、まさかの時は一ツも役に立たず。人も我も、二本の手にてする所も同じ事なれば、思うようにはならぬものなり。これを切組兵法という。

剣術は間に髪をいれず、心に得て手に応ず。兼ねてたくらみたるは用に立たず、みな虚となるものなり。そこを合点し自得するは、つねづね心がけ修行するにあり。その修行は、師について立ち替わり入れ替わり日々稽古するほどの事はなけれども、師友なしとてまた稽古のならぬにてもなし。

その証拠は、源義経は打物の達者なれども、義経の師匠というものなし。あるいは天狗に学びたるともいい、猿を相手にして妙を得給いしともいい伝うれども、みな妄説とおもわるる。さりながら、猿を相手にせられしとは妄説ながら、ひとり修行のより所なりとしるべし。ある人猿をかい置きたりしが、竹刀を以て突くにとびあがりたり、くぐりたり、または竹刀の先をとらえたりして突く事ならず。ある日猿を突かんとするに、急用ありて下女来て もし という。おいと答えながら突きたるに、何のぞうさもなく突き得たり。ここをもって合点すべし。

かくせん、こうせんと我が胸中に一物あれば、鏡に影のうつるがごとく、透間となりて打たるるなり。李白が詩を作るにも、不用意を以て是を得たりと、李攀龍が評せしごとく、思案工夫では却ってわるい、その不用意というは常の修行の妙所なりと知るべし。

例えば師に随って学び、このような時はこうあしらい、こう来たならばこうせよと教わったとしても、まさかの時には一つも役に立たない。人も我も同じように二本の手を使い、同じ目的で技を使うのであるから思い通りにはいかないのだ。そのような稽古を切組兵法(形兵法、所作兵法)という。
剣術は間に髪を入れず、心に得て手に応ずるものだ。最初からたくらんだものは皆役に立たず虚となる。そこを自得するには普段から心懸けて修行するしかない。
その修行というのは、師について毎日稽古するには及ばないとしても、師や友がいなくては稽古にならないというわけではない。
その証拠には、源義経は剣の達者であったが師匠というものはいなかった。あるいは天狗に学んだとも、猿を相手に妙所を得たとも言い伝えられているがみな妄説と思われる。
ただし猿を相手にしたことは妄説であろうが、独り修行の拠り所となりうるものだ。
ある人が猿を飼っていて、竹刀で突いてみたが飛び上がったりくぐったり竹刀の先を掴んだりして当てられなかった。あるとき猿と突こうとしているときに急用で下女が来て「もし」というので「おい」と応えながら突いたところ何の造作もなく突けたという。このところをよく合点すべきである。
ああしようこうしようと自分の心に一物があると、鏡に影が映るようにそれが隙となって打たれてしまう。李白が詩を作るときも不用意のときにできたと李攀龍(中国明代の詩人)が評したように、思案工夫はかえって悪く、不用意というのが普段の修行の妙所であると知るべきである。

  ひとり修行の仕方

ひとり稽古なればとて、一人にてとびはねるばかりにては、稽古にならず。さればとて、突を立て立木などを相手にしては、死物にてこれもまた用に立たず。とかく活物を相手にするにあらざれば、稽古にならぬ事なり。兄弟または近所の子供などをたのみ、相手にすべし。これも初め二三度は、おもしろがりて相手になるべけれど、後には飽きはてて厭がるべし。古も北狄とたたかいたるに、中華より北狄は弓も達者なるゆえ、何とぞ上手にせんと思い修行さすれども、無情にてはかどらず。大将思案をめぐらし、射当てたる者には、そこは何ほど、ここはこれほど、金子をあたえんと褒美を定めしかば、人々勇みすすみて、出情してたちまち上手になりたりという事あり。かようの事あれば、相手にする子供にも、一本打ちたらば何をあたえん、二本打たばなにと、菓子・絵・扇などその人の好くものを遣わし、毎日修行するならば、後々はおもしろみつきて出情すべし。

  ひとり修行の仕方
ひとり稽古とはいえ、独りで飛びはねるばかりでは稽古にならない。だからといって打ち込み用の棒を立てて相手にしても死物であるからこれもまた役に立たない。とにかく活き物を相手にするのでなければ稽古にならないのである。兄弟または近所の子供などに頼んで相手にするのがよい。
ただしこれも初めの二、三度は面白がって相手になるだろうが、あとは飽きて嫌がるものだ。
昔中国で北狄と戦うために兵士に弓を上手にさせるための修行をさせたがはかどらず、大将が思案して、的を決めここに射当てた者にはいくら、ここを射当てたらいくらというように褒美を与えることにしたところ人々は皆精を出して稽古し、たちまち上手になったということがある。
これを考えれば、相手にする子供にも一本打ったならば何、二本打ったなら何をあげるというふうにして菓子や絵、扇などその子の好きなものをあげるようにすれば、やがて面白くなって一所懸命になるだろう。

たとえば十八九歳・廿歳ばかりの人ひとり修行するならば、我より劣りて力弱く十四五歳までのもの相手にすべし。我と同輩の人は打ちも強く、初心のうちは手にあまりてあしらいがたし。相手子供なれば、叩かれてもいたまず、あしらいよし。先ず両人ともに、面・小手・竹具足にて身をかため、怪我の無きように用心して、此方よりは少しも打たず、相手の方より打ちなりとも、なぐりなりとも、突きなりとも、心いっぱいに働かせ、此方は、あるいは受け、または外し、数篇打ち合うとき、初めは十本が十本ながら打たるるものなり。篇かさなれば、十本のうち八本打たれ、それより五六本になり、後には十本が十本ながら、あたらぬようになるものなり。これ最初の稽古なり。
かようにばかり稽古しては、先ぬるくなりて、互角の相手に会うては後れをとるものなり。これより打ちを第一とすべし。上げんとするかしら、下げんとするかしらへ打ちこむべし。されども、狙うは悪しし。狙うて打たんとすれば透間となる。無二無三に打ち込み、あたらずば引き返し、左右かしらを続け打ちに打つべし。そのあいだに、すきま見ゆるものなり。

例えば十八、十九、二十歳くらいの人が独り修行をするならば、自分より力が弱い十四、十五までの子を相手にするのがよい。自分と同年齢くらいの相手では打ちも強いため初心のうちは手に余ってあしらうことが難しい。相手が子供であれば叩かれてもそれほど痛みもなくあしらいやすい。
まず両人とも面・小手・具足にて身をかため、怪我をしないように用心しながら自分からは少しも打たず、相手に打ちでも、なぐりでも、突きでも心いっぱいに働かせ、自分は受けや外しをする。初めは十本のうち十本打たれるものであるが、何度もするうちに打たれる数が十本のうち八本になり、やがて五、六本になり、ついには十本のうち一本もあたらぬようになるものだ。これが最初の稽古である。

さてこのような稽古ばかりでは先がぬるくなって互角の相手に対しては後れをとるものである。よってこれよりは打ちを第一とする稽古に移る。相手が上げようとする瞬間、下げようとする瞬間に打ち込むのである。ただし狙ってはいけない。狙って打とうとすると隙となる。ひたすらに打ち込み、当たらなければ引き返し、左右を続けざまに打つべし。そのうちに相手の隙が見えるようになる。

 

また後剣とて、先のものを打てども、打たれながら手前を打つことあり。その後剣を受け流し、打つべし。これらは、口得て云うべきにあらず。修練のうえに自得すべし。ただし、相手は我より弱き子供なれば、随分軽く撫でるように、柔々と打つべし。強く打ちていたむ時は、こりて重ねて相手にならぬものなり。双方稽古積もり、互格になりてのちは、なるほど互いに強く、心いっぱいに打つべし。

また、後の剣といって自分が先を打っても相手が打たれながらこちらを打つことがある。その剣を受け流してさらに打つべし。これらは口で説明できるものではない。修練して自得すべきことである。ただし相手は自分より弱い子供であるから撫でるように柔らかく打つのがよい。強く打って痛くなると懲りて相手をしてくれなくなってしまう。
お互いが稽古を積んで互角になったならば、力いっぱい強く打ってもよいだろう。

 

  先々・後先・先後先の大事

互いに立ち向かいて、ちらりと見ゆる所の虚へ打ち込む。これ先の先なり。これには後剣もこぬものなり。間に髪をいれぬ所なり。この虚、少しの間に実となる、毛筋ほどの間なり。先かたより打ちを受け流し、返す太刀にて打ちてとるは、、後の先なり。
此方より打ちを、相手受け流し打つを、あるいは引きはずし、または流す太刀にて打つは、先後の先なり千変万化の業なれば、これのみに限るべからず。ただその名目をあげて、大略をしるすものなり。

  先の先・後の先・先後の先の大事
互いに立ち合って、ちらりと見える「虚」に打ち込むのが「先の先」である。これには後の剣も来ないものだ。間に髪を入れぬ所である。この「虚」はすぐに「実」となる。毛筋ほどの間である。
相手よりの打ちを受け流して返す太刀で打つのは「後の先」である。
こちらからの打ちを相手が受け流して打ってくるのを、引き外しあるいは流す太刀にて打つのは「先後の先」である。
他にも千変万化の技があるのであってこれに限るものではない。ただ名目をあげて大略を示しているだけである。

 

  場合の事

場合とは、相手と我と立ち向かいたるあいだなり。遠ければ太刀届かず、近ければつかえてはたらき自由ならず。いかほどということ、兼ねて定め難し。度々立ち合いて、自然に合点ゆくべきなり。これを水月の矩という。

  場合(間合)の事
場合(間合)とは相手と自分との向かい合った間のことである。遠ければ太刀が届かず、近ければつかえて自由がきかない。どのくらいが良いかということは定められない。何度も立ち合ううちに自然に合点がゆくものである。これを水月の矩(かね)という。

 

  目 付

仕合の勝負に第一とするは、目のつけ所なり。目のつけ所は、眼中なり。心に思う所、眼中にあらわる。孟子に存乎人者莫良於乎眸子、眸子不能掩其悪といえり。剣術もまた然り、心のおこる所かならず眼にあらわる。眸子とは、瞳なり。ひとみのちらりと動くかしらへ打ちこむ、これ剣術第一の秘伝なり。常々心懸くべし。修行の巧つもらざれば得難し。
  
目 付
仕合い勝負で第一大切なのは目の付け所であるが、目の付け所は相手の眼中とするがよい。心に思う所は眼中にあらわれる。孟子に「存乎人者莫良於乎眸子、眸子不能掩其悪」(その人物をみるのに眸子(瞳)より良いものはない、眸子はその悪をおおい隠すことができない)と云う。剣術も然りである。
心の起こるところは必ず眼にあらわれる。眸子とは瞳である。瞳がチラリと動く瞬間に打ち込むのが剣術第一の秘伝である。常々心懸けるべきである。修行の功が積もらなければ得難いものだ。

  長短の矩

人に長短あり、剣に長短あり。我より長高き人に逢うては、剣届かぬるものなり。そのうえ向うの太刀、我がかしらへ強く来る。踏み込んでたたかうべし。歌に、

  大浪の さきにながるゝ とちがらも
   実をすてゝこそ うかむ瀬もあり

剣の長短もまたしかり。
  長短の矩
人の身の丈に長短あり剣にも長短がある。自分より丈の高い相手には剣が届かないし、そのうえ相手の太刀はこちらに強く来る。踏み込んで戦うべし。歌に
   大浪(おおなみ)の さきに流れる 橡殻も
   実(身)を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあり
     (橡殻=とちがら=橡の実の外皮)
剣の長短もまた同じ事である。

 

  仕合の心懸

初めての仕合にのぞむときは、実に戦場にて敵にむかいたるごとく、心ときめくものなれども、度々になり篇かさなれば、常になりて心怠り、後にはおどけのようになりゆくものなり。いつまでも、はじめのごとく大事をとり、初心の相手なりとも、大敵に向かいたる如く少しもあなどらず、また剛強の人か我より勝りたる上手なりとも、おそれずあやぶまずして稽古すべし。また稽古場かわれば、心改まるものなり。他流と仕合するにも、常になれたる所にては仕安し。先方の稽古場へゆきては、仕難きものなり。折々場所をかえて稽古すべし。
同じ人とたびたび仕合するときは、互いに手癖を知る故仕よきものなり。立ち替わり入れかわり大勢と稽古するがよし。それゆえおりおりは、他流と仕合したきものなれども、稽古第一という事を忘れて、争いばかりなるものなり。これらは修行の本意を知らざるよりおこる事なり。昔は武者修行とて、諸国をめぐりたる事あり。他流と仕合するとも、我意をすてて礼儀をあつくし、かならず争うべからず。論語にも、君子は争う所なしとあり。侍たるものは、君子にあらずや。君父のために修行する剣術なれば、修行こそ第一なれ。詮なき事を争うまじき事なり。その争わざるを以て、天下よくこれと争う事なしと、老子にも見えたり。
たとい人は争うとも、我は謙譲を守って争わずば、その人かえって恥じてしたがうべし。これ士たるものの専要の心懸けなり。仕合するに真剣なれば、勝負は立ち所にわかるれども、撓(しなえ)なるゆえ、あたるあたらぬの争いあり。しかれども、我心には知る事なり。あたりたるをあたらぬというとも、取りあうまじきなり。歌に、

  人とはゞ あるをなしとも いふべきが
    心にとはゞ  何とこたへん

  仕合いの心懸け
初めて仕合いに臨むときは戦場で敵に向かい合うように心が弾むものだが、何度も経験すると慣れてきて心が怠け、やがてふざけ心が出てくるものである。いつまでも初めての時のように大事をとり、仮に相手が初心の者だとしても大敵に向かい合うように少しも侮らず、また相手が自分より上手だとしても恐れず稽古するべきである。
また稽古場が変われば心が改まるものである。他流と仕合いをするにもいつもの慣れた場所はやりやすいが、相手方の稽古場ではやりにくいものだ。時々場所を変えて稽古するのがよい。
また、同じ人と何度も仕合いをするのは互いに手癖を知っていてやりやすいので入れ替わり立ち替わり大勢と稽古するのがよい。それゆえ時々は他流と仕合いをするのが良いのだが、どうしても稽古第一ということを忘れて争いごとになってしまいがちだ。これは修行の本旨を理解していないから起こることである。
昔は武者修行といって諸国をめぐることが多くあったが、他流と仕合いをするときも我意を捨てて礼儀を厚くし、けっして争いを起こさぬものだった。論語にも「君子は争う所なし」とある。侍たる者は君子であろう。主君や尊父のために修行する剣術であるならば、修行することこそが第一である。詮無きことで争うべきでない。その争わないことを以て、「天下よくこれと争う事なし」と老子にも見える。
たとえ相手が争いを仕掛けてきても、自分は謙譲を守って争わないようにすれば相手は恥じてかえって随うものだ。これは武士たる者の大切な心懸けである。
また、仕合いをするにも真剣を使えば勝負はたちどころに解るけれども、撓(シナイ)であるゆえ当たった当たらなかったの争いになる。だが本人にはわかっていることである。当たっているのを当たっていないと云うのは取り合わぬようにするがよい。歌に
  人問わば あるを無しとも 云うべきが
     心に問わば 何と答えん

  気のあつかい

気は我がものなれども、自由にならず。勝負気一篇と口にはいえども、業にかかりては思いの外なるものなり。心ひろく体ゆたかなるは、気の満々と満ちたるなり。孟子、浩然の気を説きて、義と道とによりて うゆる事無しとのたまう。道にたがわず義を守らば、天下におそるべきもの無し。これ、浩然の気の養いなり。剣術もそのごとく、修行功つもり我に正しき術を得れば、体気まんまんとして飢えざる事を得ん。
  
気の扱い
気は自分のものであるのに自由にならないものだ。戦意充実と口では言っても、技を遣うと思いどおりにならなくなる。心ひろく体が豊かであれば気は満々と満ちるものだ。
孟子は浩然の気を説き、義と道によって憂うこと無しとのたまった。道を外さず義を守れば天下に恐れるものは無い。これが浩然の気の養いであるという。剣術もそのように修行の功が積もり、正しい術を得れば体中に気が満々と満ちて足らざることはなくなるだろう。

  気の置所

気の置所は痃癖もとなり。深更または深渕にのぞみ、ぞっとするのも痃癖もとなり。狐狸に襲わるるもここなり。気を痃癖もとにあつめ、心は臍下に置くをよしとす。目にて思い腹にて見るという事あり。工夫すべし。かようの事は、修行功つもらざれば知れがたし。口伝書面にては、合点ゆくことにあらず。よくよく心懸けて自得すべきなり。
  
気の置き所
気の置き所は首から肩のあたり(痃癖)である。真夜中や深い淵をのぞいたときにぞくっとする所であり、狐狸に襲われるのもここである。この場所に気を集め、心は臍下に置くことを良しとする。眼にて思い腹にて見るともいう。工夫すべきである。このようなことは修行の功が積もらなければ解らないものだ。口伝や書面で合点できることではない。よくよく心懸けて自得すべきである。

  相気の先

双方体気満々として立ち向かいたるは、相気なり。孫子にいわく、能く戦うものは鋭気を避く。しかれば避くべきの所なれども、ひく時はつけこみて、此方受け太刀となりて、手を出す事あたわず、おくれをとる、いかんともすべきよう無き場所なり。そのうえ稽古場せまければ進退自由ならず。とかく剣術は、うくる時は損あり。思い切りて必死になり、打ち込んで当たらずば引き返して左右上下をぱちぱちと打ちたてば、おのずから透間あるべし。そこを打つを、相気の先という。却って相手にかくのごとくせらるる事なかれ。
  相気の先
双方の気が満々として立ち向かうことを相気という。孫子に云う、「能く戦うものは鋭気を避く」。であれば避けるべき所であるが、ひくと相手はつけ込んできて、こちらは受け太刀となって手を出せなくなり、後れをとっていかんともしがたくなってしまう。そのうえ稽古場が狭ければ進退もできなくなる。とかく剣術は受ける時は損が多いものだ。思い切って必死になり、打ち込んで当たらなければ引き返して左右上下をバチバチと打てば自ずから隙ができるであろう。そこを打つことを相気の先という。かえって相手にこのようにされることが無いようにしなければならない。

 

  入身の心得

諸流の中に、入身を重とする流儀多し。長剣、短剣ともに、当たるを合図に入り来る。大かた入られるかた、負くるものなり。身際になりては、打つこともならず、組み打ちより外なし。しかれども、入身は一人より外は相手にしがたし。あながちに好む事にあらず。相手短撓にて入らんとする時、真っ直ぐに頭を打てば、受けとめて入り来るべし。左右の肩脇を打つときは、さすが短刀なるゆえ、仕方なきものなり。そのうえ入身を第一とする剣術者は、余り業は働かぬものなり。相寸ならばまた心得もあるべし。相寸とは、双方の撓長さ同寸なるをいう。入身のかたは、おおかた青眼か、下段か、斜に構うべし。これまた、常々心懸けて修行すべし。
  入り身の心得
諸流の中で入り身を重要とする流儀は多い。長剣、短剣ともに当たるを合図に入ってくる。だいたい入られた方が負けるものだ。身際になってしまうと打つこともできず、組み打ちしか方法がなくなる。ただし入り身は敵が二人以上では相手をできなくなるから、こればかり好むのは良くない。
相手が短いシナイで入ってくる時、まっすぐに頭を打てば受けとめて入ってくるが、左右の肩脇を打てば短刀では受けられないものだ。また、入り身を第一とする剣術者はあまり技は働かないものであるから、相寸ならばまた心得もあるだろう。相寸とは両方のシナイの長さが同寸のことを云う。
入り身を遣う相手はおおかた青眼か下段か、斜に構えるものだ。これまた常々心懸けて修行すべきである。

  ひとり修行の仕方

ひとり修業の仕方は、前にでたり。子供を相手にし、少し業もつきたらば、同輩のものを相手とすべし。柔弱なるものばかり相手とする時は、業もあがらず。次第に長高強力の人と稽古するをよしとす。剣術によらず、いずれの芸も教ゆるところは正にして、奇は人にあることなれば、口決伝授の及ぶ所にあらず。以心伝心なれば、師あるも師無きも、つまる所の極意はひとり修行と知るべし。
  
ひとり修行の仕方
独り修行の仕方は前述のとおりである。子供を相手にし、少し技が上達したならば同輩の者を相手にするがよい。また柔弱な人ばかりを相手にしていては技も上達しないので、次第に体の大きい人や力の強い人と稽古するとよい。
剣術だけでなくいずれの芸事でも、教えるところは「正」だが「奇」は人にあるものだから口決伝授だけでは足りないのである。以心伝心である。
であるならば、上達のためには師がいてもいなくても自分の稽古次第ということであって、結局は独り修行が極意と知るべきである。

 

  真妙剣

諸流ともに、真妙剣と名付けたる極秘の剣あり。斎戒沐浴して、礼を厚くし伝授すべきことなり。軽々しくすべからず。かくのごとく重んじ貴ばざれば、かりそめのようになりゆきて、伝授したる甲斐なし。つつしんで師伝を受くべきことなり。ここにしるすも恐れありといえども、寒郷師友無き人のために、止むことを得ずひとり稽古の仕方をあらわしはべりぬる次手に、そのあらましを示す。秘すべし秘すべし。真とは、偽りかざり無く、真実なるをいう。妙とは、神変不測にしてはかるべからず、言語を以て伝うべからず、心に得て解悟し、自然と手に応ずるをいう。歌に

  妙の字は 少き女の みだれ髪 
    ゆうにゆはれず とくにとかれず

この哥にて会得すべきなり。されども真妙剣というは、剣の名にもあらず、また剣術の形にもあらず、伝授したればとて たちまち上手になるにてもなし。修練の功つもりて、後にこれぞ真妙剣なりという事を合点すべし。実に秘すべきの名剣なり。ここにその一をあげて、初心にしめす。よくよく考え知るべし。
たとえば双方立ち向かい、勝負気一篇になりて、丁々と打ち合うとき、その透間のあらわる所を、間に髪を入れず修練の剣の当たる事、石火のごときは真の真妙剣なり。我ももとより思い設けず(いろいろ考えず)、また偶中(まぐれあたり)にもあらざるゆえ、相手もこれをささゆること能わざるなり。石火とは、鉄を以て石を打てば、たちまち火の出るを云う。鉄と石とあたると直に火の出るは、間に髪を入れざるの勢いなり。偶中はまぐれ当たりなり。兼ねてかくせんと心にたくらみ思い設けたるは、人の己を見る事その肺肝を見るが如しと。ある聖言のごとし。誠にありがたき名剣なり。志ある人、よくよく修行して得給へかし。


  真妙剣
諸流に真妙剣と名付ける極秘の剣がある。斎戒沐浴して礼を厚くして伝授すべきことで、軽々しくしてはいけない。そのように重んじ貴ばなければ、いい加減なものになって伝授する甲斐がなくなってしまう。つつしんで師伝を受けるべきである。
ここに記すのはおそれ多いことだが、僻地にいる人や師友の無い人のためにやむをえず独り稽古の方法をあらわしたついでに、そのあらましを示す。秘するべし。

真とは偽り飾り無く真実なることを云う。妙とは神変不測で計り知れない、言語では伝えられない、心に解悟して自然に手に応ずることを云う。歌に
  妙(たえ)の字は 少(わか)き女の みだれ髪 
    結うに結われず 梳くに梳かれず(云うに云われず 説くに説かれず)
この歌にて会得すべし。しかし真妙剣というのは剣の名でもなく剣術の形でもない。伝授したからといってたちまち上手になるわけでもない。修行の功が積もってあとでこれが真妙剣であったかと合点するものである。実に秘すべき名剣である。ここにその一つをあげて初心の者に示す。よくよく考えるべし。

たとえば双方が向かい合い、戦意が充溢して丁々と打ち合っているとき、相手の隙が見えた所に間髪を入れず修練の技が当たる、その石火のごときことを真の真妙剣と云う。自分にも意識がなく、かといってまぐれ当たりでもないので相手もこれを遮ることができないのである。石火とは鉄で石を打ってたちまち火花が出ることを云う。この火花が出るときは鉄と石が当たった瞬間であり、間に髪を入れない早さである。
初めからああしようこうしようと考えをめぐらすのは、相手から見ればこちらの内臓まで見えているようなものだとある聖言に云うがそのとおりである。
真妙剣というのは誠にありがたい名剣であるから、志のある人はよくよく修行して、きっと得給うべし。


信、幼少よりこの道を好みて、日夜忘るること事なしといえども、家貧にして師について学ぶ事あたわず。旦暮衣食に奔走して、空しく光陰を過ごす。中年の頃、人の教えにしたがい、程なく年去り歳来て、ことし七十二歳、ようよう杖に助けられて日用を達する程なれば、今は武芸も思い絶えたり。そのうえ稽古の年数もなければ、とり留めたる事もなし。むかし、ある先生、不老不死の術を伝授したるが、門人多く集まり、その益を得る者少なからず。しかるに不死を伝えし先生、程なく夭死(若死に)したりという事あり。これ、かの先生、偽りを伝えしにはあらず。その術を知るといえども、ひたすら我が身に修すると修せざるとにあり。我もまた、上手にてこの書を著したりと思い給うべからず。
私は幼少より武芸を好んで日夜忘れる事はなかったが、家が貧しく師に就いて学ぶことができなかった。むなしく時は過ぎていったが、四十の頃人の教えにしたがってひとり修行を思い立ち、すこしその通を得たように思うが、時はすぐに過ぎて今年でもう七十二歳、 杖をつきながら日用をこなす身であれば今では武芸への思いも絶えてしまった。そのうえ稽古の年数があるわけでもないので特にたいした者ではない。
ところで、昔ある先生が不老不死の術を伝授していたが、門人も多く集まって評判が高かった。ところがその不死を教える先生が程なく若死にしてしまったという。これは先生が偽りを教えていたのでなく、いくら不死の術を知っていても自分の身に修するかどうかは別ということである。
私のことも、名人上手だからこの書を著したとは思い給うな。

  寛政十一年十一月御免
  寛政十二年正月新刊
                 寺町通五條上ル
   皇都書肆      岩瀬儀兵衛


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