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六. 書斎

研究机

この机では、テーマを決めて、そのテーマに関する記述の部分を抜き出して比較してみます。

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■足遣いについて

武術的な足遣い、歩き方とはどんなものが理想なのかについて考察してみたものです。

●悒貫書 上泉伊勢守(新陰流)
 第二十三 足つかひの事
 あしつかひハ、まりにたとへたる物也。少も居つかす、かるき位吉。乍去、うわつりて、かるきハあしゝ、すくみてかる味わひ吉。

【研究】
まりにたとへたる物也。少も居つかす、かるき位吉。
=“ 足遣いは毬が転がるように、少しも居着かずに軽く動くのが良い”ということでしょうか。一歩ごとに体が揺れて頭が上下するのではなく、スーッと動くのが良いということではないかと思います。「古武術で目覚めるからだ/洋泉社」の黒田鉄山氏を取材したページの冒頭に「道場に並んで黙々と居合の型を稽古する門人達のあいだを、黒田鉄山師範は滑るように歩いて、手の向きを直したり、肩に触れたりして指導にまわっていた。まるで人のあいだを風が吹いていくかのようだった。」という記述がありますが、このようなことではないかと思います。(黒田師範の振武舘の剣術である駒川改心流剣術は、流祖が上泉伊勢守の高弟と伝えられています)

乍去、うわつりて、かるきハあしゝ、すくみてかる味わひ吉。
=“ただし、体がうわずって間延びして軽いのは駄目で、逆に身を低くすくめても軽く動けることが良い”というような意味でしょうか。

●天狗藝術論 巻之四  佚斎樗山子

一、また、歩行する者を見るに、常人多くは上ずりなるが故に、頭をつり合って歩行し、あるいは五体をもみて歩く、善く歩行する者は腰より上は動くことなく、足をもって歩行するが故に、体静かにして臓腑をもむことなく、形疲れざるものなり、
〜中略〜
一切のことみな常に修すべし、路をゆきながらも、寝ても、人と対しても、工夫は成ることなり、猿楽の太夫どもの足づかいを見るに、つま先を反らして進む、足を活かし踵(かかと)をふみて行く、これ身の風流ばかりにあらず、進む足活きて、足を使うに自由なり、また気我に返りて向こうへ洩れること無し、鞠(まり)を蹴る者の身使い足使いも同じ、上手の太夫の舞う所を後ろより突くに、つまづき倒れる事無し、これ気活して総身に充ち、下は定まっておもく、上は軽く動いて片寄る所なく、臍下より呼吸して声を出すが故なり 〜後略

【研究】
歩行する者を見るに、常人多くは上ずりなるが故に、頭をつり合って歩行し、あるいは五体をもみて歩く、善く歩行する者は腰より上は動くことなく、足をもって歩行するが故に、体静かにして臓腑をもむことなく、形疲れざるものなり、
=“普通の人間は体がうわずっているため頭で均衡を取って歩いたり、五体を捻って歩いている。上手に歩く人は腰から上は動かさず、足で歩行するから余分な動きが無くて静かであるし、内臓を捻ることも無く、疲れにくいものである”というような意味でしょうか。

猿楽の太夫どもの足づかいを見るに、つま先を反らして進む、足を活かし踵(かかと)をふみて行く、これ身の風流ばかりにあらず、進む足活きて、足を使うに自由なり、また気我に返りて向こうへ洩れること無し、鞠(まり)を蹴る者の身使い足使いも同じ、上手の太夫の舞う所を後ろより突くに、つまづき倒れる事無し、これ気活して総身に充ち、下は定まっておもく、上は軽く動いて片寄る所なく、臍下より呼吸して声を出すが故なり
=“猿楽(能楽・軽業などの演芸)の太夫の足遣いはつま先を反らして踵を踏んで歩く。これは芸風のためだけではなく、進む足(前に出る足)が生きて足が自由に使えるからである。それに気が自分に戻って向うへ漏れることがない。まりを蹴る者の身遣い、足遣いも同じである。上手な太夫が舞っているときに後ろから突き押しても、つまづいたり倒れたりすることが無い、これは気が全身に満ちて下半身が安定し、上体は軽くゆとりがあって偏りがなく、臍の下で呼吸(腹式呼吸)して声を出すからである”というような意味かと思います。
つまり踵を踏んで歩くのが良いということのようです。

 

●五輪書 水の巻  宮本武蔵

一、足つかひの事
足の運びやうの事、つま先を少しうけて、きびすを強く踏むべし。足遣ひは時によりて、大小遅速はありとも、常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ嫌ふ足也。此道の大事に曰く、陰陽の足といひ是肝心也、陰陽の足とは片足計り動かさぬもの也、きる時、ひく時、うくる時迄も、陰陽とて右左々々踏む足也、返すがえす片足踏むこと有るべからず、能々吟味すべきもの也。

【研究】
つま先を少しうけて、きびすを強く踏むべし。足遣ひは時によりて、大小遅速はありとも、常にあゆむが如し。
=“つま先を少し浮かし、かかとを強く踏むのが良い。足遣いは場合によって大小遅速はあっても、常に歩くように動くのが良い”という意味でしょうか。常にあゆむが如しというのは、止まって居着いてしまわないようにという意味もあるかと思います。

足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ嫌ふ足也。
=飛足は飛んで移動すること、浮足は足が浮くこと、ふみゆする足は足が居着いてしまうこと、この三つは悪い動きである、というような意味でしょうか。

此道の大事に曰く、陰陽の足といひ是肝心也、陰陽の足とは片足計り動かさぬもの也、きる時、ひく時、うくる時迄も、陰陽とて右左々々踏む足也、返すがえす片足踏むこと有るべからず、能々吟味すべきもの也。
=この道で大切と言われていることに、片足ばかり動かすのは悪い動きであって、斬る時も引く時も受ける時も、陰陽の足といって右左を交互に使うのが良いというのがある。いかなる時も片足だけで踏みこたえることが無いように、よくよく研究・稽古が必要である、というような意味でしょうか。

●一刀流聞書 中西忠兵衛子正

一、初心の者を引き立て候うには、足の踏みよう等に構わず、太刀の附け所、切落し等を教え、スラリスラリと遣わせ候うように致すべし。足の踏みよう、または体等を直し候えば、それに気を取られ手の方スラリとなり申さず、胸に凝り申し候う由し。スラリスラリと遣わせ候えば 自ずから足の踏みよう等直り、体もスラリと出来申し候う。

【研究】
スラリスラリと遣わせ候えば 自ずから足の踏みよう等直り、体もスラリと出来申し候う。
=初心者に教える場合という条件付きですが、“足の踏み方や姿勢ばかり先に教えるとそれに気を取られて肝心の太刀の扱いがうまくできなくなるが、逆に太刀の扱いをスラリスラリとさせれば自然と足の踏み方も、姿勢や体の処し方もスラリとできるものだ”という意味でしょうか。
あくまで体をスラリスラリと使うことが重要であると説いているようです。

 

●無足の法 黒田鉄山師範「気剣体一致の武術的身体を創る」より

「『無足の法とは』  足が無い、足がいらない、足は無用と書く「無足の法」は、四心多久間流柔術が発祥である。しかし、その内容は文字とは反対に、足を本来の足として最大限に働かすための術理術法となっている。一般的には自分の足(身体)は自分の意志によって自由に動かせるものと誤解されている。跳んだり、走ったり、日常の立ち居にしても、自由に動けているものと思われている。しかし、それらの多くは、いやほとんどすべては、武術的世界の観点からすれば、まことに不自由きわまりない不合理な動き方と判断される。武術における本来あるべき姿としての足の動かし方は、非常に精緻技巧的であるがゆえに、ごく自然でもある。今までの自分の足を否定することにより、初めて武術の世界における有用な足が生まれるのである。」

黒田師範はいくつもの著書の中でこの無足の法の重要さに触れています。そしてこれは柔術のみのものでなく、剣術、居合、棒術、そのほかあらゆる武術の基本になる、武術的身体を創るための欠かせない要素である、というようなことを説いておられるようです。

 

●船越義珍老師の思い出 故江上茂師範「空手道 専門家に贈る」より

「誰もいない道場で、余念なく独り稽古していた。 〜中略〜 思い切り踏み込む。パシッと音がする。アッと驚いて床を見る。新しくキッチリと作られた床板は、見事に横に切れていたのだ。内心“やったぞ”とうれしくなったのだが、大事な新道場の事でもあり、一応謝っておいた方が無難だとばかり、若先生に報告して詫びる。 〜中略〜 『江上君かね。この床板を割ったのは』何時の間に来られたか、老師の静かなお声が聞こえる。『ハイ、すみません』一寸、しおらしく詫びたが、若先生と同様に簡単に許していただき、おほめの言葉でもいただけると思っている。『一寸、来なさい』と言われ、二階の書斎に導かれる。いささかの不安も出て、神妙に老師の前に座る。やや間をおいて、
『江上君、又、君はあんな事をやった。本当の稽古は、あんなものではないよ』
そう前置きして、昔の稽古、本来の稽古はあんな乱暴なことはしなかった。本来は、障子を、紙のはってある方を上にして倒し、水をかけて、その上で稽古したものである。障子の骨を折らず、紙を破らないように動く。しかも力一杯動く。どうしたら、そのような動きが出来るかを研究したものだ。と懇々とさとされたものだった。今にして思えば、非常に大事なお話だったと思う。味わってもらいたい。」
 

 

●内家拳篇 程聖龍氏「仙人入門」より

足遣いとはちょっと違いますが、動かないということについて非常に意味の深い文章だと思いますので掲載します。

こうしてひとりで練習を続け、仕事の合間を縫って様々な修行と経験を積み重ねるうちに、私は手や足も考えることができるのではないか、と思うようになってきた。拳法の現実は功夫映画でお馴染みの戦いとはまったく違う。実際の場面では何手も応酬することはまずない。最初の一手か二手、それで決まらなければ終わりだ。これはちょうど時代劇の殺陣と実際に日本刀を使う場面の違いを想像してもらえばわかりやすいだろう。日本刀も実際に使おうと思えば行きつくところは居合いになる。抜いて切る。その一瞬ですべてが決まる。何度も切り結んだり、華麗な応酬を見せたりすることは絶対にない。このあたりの状況は拳法でもまったく同じである。ルールに則ってポイントを競うスポーツ競技ならいざ知らず、実際に立ち会うとなれば勝負は常に一瞬で決まる。〜中略〜
じっと動かずに手を上げ続ける立禅――そのなかでは、上下、左右、前後など全方位への動きが均衡し、その結果として、あのような動かない状態が出現している。 〜中略〜 これを理解するには、次のような状況を考えればよい。短距離走と、マラソンと、そして内家拳だ。この三つは動くことと対応できることとの関係を鮮やかに浮かび上がらせてくれる。
まず走る距離が一番短い短距離走者は、号砲が鳴った瞬間に飛び出していく。ゴールがそこに見えているのだからためらっている暇はない。当然、スピードも三者の中で一番速い。けれど彼は前に飛び出すことしかできない。「ドン!」の号砲とともに横方向に動けといっても無理なのだ。
次にマラソンの選手である。走るスピードは短距離走に劣るが、彼の自由度は短距離走よりも大きくなる。〜中略〜
そして最後は内家拳。これはスピードではお話にならない。なにしろ動かないのである。しかし彼は、三百六十度対応できる。真後ろに下がることも左右に移動することも、それどころかしゃがむことや跳び上がることだってできる。まさに全方位の自由度だ。〜中略〜
一方向に向かう力が強くなればなるほど対応できる範囲は狭まってくる。それに対し、すべての方向に力を向かった結果として動かずにいれば、三百六十度どころか、上からの動きにも下からの動きにも対応できる。一般の武術は短距離走と同じ視座に立つことが多い。より速く、より強いパンチを出すことで相手をしのぎ、目に見える「良い」ものをそのまま伸ばすことで勝負しようとする。しかし短距離走の世界では才能的に劣った人間はスタートした瞬間に負けが決まる。単純な強さを善しとする武術もまた然りだ。反射神経、体格、力という才能面で劣った人間はスタート時点で負けが決まってしまう。それに対してマラソンは短距離走ほど単純に決まらない。 〜中略〜 そして内家拳は才能とは全く無縁の世界だ。言い換えれば、小さく、弱く、反射神経も鈍い、何の才能もない人間が、それでもなお活路を見いだせる世界である。〜中略〜
このスタート姿勢を見るだけで三者がどう動こうとしているかが見えてしまう。「よーい」のなかで形が強く見えるほど、つまり設定がはっきり見えるほど、対応できる範囲は狭くなる。これは武術で立ち会うときも同じだ。手を上げて構えたり、足を出して構えたりする形が見えれば見えるほど、次の動きは限られてくる。そして限られた動きのなかで生き延びるチャンスを増やすためには反射神経や体格などの持って生まれた才能に頼るしかない。けれど内家拳のようにただボーッと立たれると次の動きがまったく設定できない。そして動きの設定がないということは才能に頼らないということを意味するのである。

少し意味合いが違うのかもしれませんが、柳生新陰流でも、但馬守宗矩や十兵衛三厳の兵法書をみると、特に構えを用いないということが書いてあります。

兵法目録  柳生十兵衛

一 兵法の習い色々これ有りといえども別に用いず
一 打ち出す所を勝つ歟(か)
一 打ち出さぬ者には仕懸けて打つ所を勝つ歟
一 それを知る者には、わが打ちを見せてそれを打つ所を勝つ歟
この三つなり。これよりほかは なきものなり。然るゆえに当流には、太刀構えを用いず、構えもなく、わが心に打たんと思う所を見せず、所作を敵に見知られず、躰もなきようにする事、当流の根本とする所なり。
一 太刀構えを習い、そればかりをよきと思い、敵にしたがわず、我心ばかりにて打つ事、当流には大きに嫌う事なり。

 


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